龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

TVや新聞を信じる人々

世の中にはTVや新聞の言うことをほぼ全面的に信じている人々が一定数、存在する。どれくらいの割合なのかと言えば、調べようがないので正確なところはわからないが、少なく見積もっても6~7割はそうだと思われるので一定数という以上に大多数と言っても過言ではないであろう。特に日本人はその傾向性が高いように見受けられる。但し全面的にと言っても妄信している訳ではない。たまには間違ったり、いい加減な説明をしたり、ヤラセの演出をしたりもするが、それは例外的なことであって基本的には国民全体の福祉や健康などの公共性に則った信頼できる情報源だと見做しているのである。それで私はそのような人々とは精神的な隔絶を強く感じるし、話がかみ合わないというか、コミュニケーションを取ることができない。ということはつまり私は人間社会から隔絶しているとも言い得ることであって、孤独な変わり者という烙印を押されても仕方のない人間なのかも知れないが、生きて働いている限りは、多くの他者と交わり、意思の疎通も図っていかなければならないので、島流しにならないように自分の本性や本音を隠している場合がほとんどである。それでも生きていけないことはないし、慣れてしまえばさほど苦痛でもない。人生とは、この世に生きることはそんなものだと達観してしまえば、あとは毎日が単に機械的に同じことの繰り返しである。人生の大部分は退屈なルーチンワークで構成されているのだ。それでもである。生きているとその退屈なルーチンワークの中で何かの病のように、本当の自分をさらけ出し、言ってはいけない(とされている)本心を言わずにおれないような瞬間が落雷のように我が心を貫くのである。言わなくてもいいようなことを、言わない方が無難なことを、私は自らの良心に照らして、愚かにも言った方が相手のためであり、社会のためであり、人類のためだなどと考えてしまって、もうどうにでもなれと、もうどうにも止まらないと言ってしまうのである。大体は酒の席が多いが、それで喧嘩になったり、いやな思いをしたこともこれまでに何度かある。別にわかってもらおうとか、認めてもらおうと思っているわけではない。何の打算も計算もない。単に言わずにおれないのである。しかし禁断の果実を食するように、その誘惑に負けて言ってしまえば、その瞬間に私は人間ではなくなってしまうのだ。人間社会から追放されなければならないのである。この恐ろしさと寂しさをわかってもらえるであろうか。文明社会の中で人間が人間として生きていくためには、TVや新聞が唱える正義や倫理を受け入れなければならないのだ。大多数の人々はTVや新聞は社会や人類の進歩、向上に役立つような情報を提供していて、それに反するような企みや政治の動きに対してはスクープとして取り上げ糾弾してくれるはずだと信じ切っている。そのように考えている人々に実際にはそうではないことを説明することはもはや不可能である。それに何で私が不快な思いをしてまで、人間世界を跳躍するように、そんな役割を背負わなければならないのか。馬鹿げている。誰もがそれぞれ自分が信じるところを信じて生きていくしかないであろう。それがどのような結果を自らにもたらそうとも自己責任である。冷たく聞こえるかも知れないが、善意や親切で、他者の考えの過ちを正してあげようなどと思っても、それは当人がそう思えるようにならなければ、その地点に達していなければ、その風景が見える高さにいなければ無意味である。他者の歩む道のりを変えてはいけないし、変える権利は私にはない。それはわかっているけれどもあまりにもひどい状況を目の当たりにすると本当に心配になってくるのである。このままでいいのかと。TVや新聞を信じている人々に、それらに共通する論調と異なることを言うと、そんな「非科学的」なことは受け入れられないなどと言われて、返す言葉を失ってしまうものである。そういう人々はTVや新聞は科学を代表していると信じ込んでいるのである。或いはTVや新聞が、いくらなんでもそこまでの嘘をつくはずがないなどと言われることもある。正直に言って、こういうことを言ってはいけないのかも知れないが、そのようなときには私は何かの動物と人間の言語を使って会話しているような気すらしてくるのである。人間とは一体、何なのだろうか。私は何もTVや新聞の存在意義を否定している訳ではない。TVもたまには見ているし、新聞も忙しくて見る間もなく溜まっていく一方であるが、二紙も取っている。今、世界で何が起きているのか、どのような状況になっているのかを知るための情報源としてTVや新聞は不可欠だとは思う。しかし一人の人間が人生において重大な選択をするための指針になるかと言えば、真逆の作用をするケースの方が圧倒的に多いと思われる。TVや新聞の情報とは、質的には洪水のように人々の冷静で正確な判断を狂わせて、一気に押し流そうとする傾向を持っている。ある意味では本質的に全体主義なのだ。そこでその流れの圧に負けないように踏ん張って、自分の頭と魂で真理と真実を見極めようと努力することが本当の知性であり、人間らしさなのではないのか。何か文句があるか。

そういうことで私はコロナのワクチンは打たない。現在、大学生の息子にも本人はどう言うかはわからないが(おそらくは私の忠告に従うと思うが)、打たないように勧めるつもりだ。去年、介護施設に入所した父親は、ワクチンを打つかどうかをヘルパーが私に聞いてきたが、年齢も年齢なので本人の意思に任せてくださいと返答し、恐らくはもう1回は打っているはずである。しかし現在、同居している母には、体調が悪く一日中、家で寝ている状態でまったく外出しないこともあって、つまり感染リスクはほぼ0なので、打たない方がいいと私は言っているし、本人もそうすると言っている。私の妹はTVや新聞を全面的に信じているので言っても無駄である。妹の二人の子供(姪)もまだ若いので打って欲しくはないし、妹を通じてそのようにも伝えたが、親本人がそんな感じなので仕方ないし、そこまで面倒は見切れない。喧嘩になるだけである。

まあ、ひとそれぞれ勝手にすればよいのであろうが、TVや新聞は毎日のように、1万人に1人か4人かアナフィラキシー血栓の症状を繰り返すだけで、遺伝子ワクチンそのものの特殊性や将来的な危険性については、徹底して判で押したようにスルーしているではないか。そんなものを信じろと言う方が土台無理である。ろくに治験もなされていないようなものを。5年後や10年後に何かの副作用が出てきたとしても国は絶対に因果関係を認めないであろうし、泣き寝入りするしかないことは目に見えているではないか。仮に集団訴訟のような動きが出てきたとしても、薬害エイズのようにその闘いだけで生きるエネルギーの全てを吸い取られてしまうであろうし、そもそも因果関係を立証することは不可能である。まあ、そういうことだ。TVや新聞の今の報道を見ていると本当に背筋が凍るような恐怖を感じる。マスコミは悪魔なのであろうか。