龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 84


日本の民主主義は、どこか相撲の土俵に似ている。

一応、俵(タワラ)の内側で真剣勝負をしているが、俵という結界の役割を果たしているのが実は大手新

聞社やTV局などのメディアである。日本民主主義的相撲の俵は米ソの対立に象徴されたイデオロギー

伝統的な残滓である。

マスメディアにとっては真の国益よりも、国民の意識が俵の外側にはみ出さないことが肝心なのだ。なぜ

なら国民が新しい時代に即応した真の国益に目覚めたときにメディアの存在基盤(古き時代の対立構造)

は崩れ去るからである。

相撲の土俵は目に見えるが、民主主義の土俵は不可視である。よって我々は八百長臭い臭いを嗅ぎながら

も、“土俵の内側”で行われるパフォーマンスに踊らせ続けられることとなる。

私はだからメディアの解体と再編を主張するものである。これほどに移り変わりの激しい時代にあって限

られたごく少数の資本がいつまでも言論の側面から日本という国を操作、誘導し続けることは危険であ

る。なぜなら本当の国益に結びつく主張の芽が潰されることに他ならないからである。権力や権威に迎合

した意見しか浮かび上がらないということである。

日本の民主主義についてメディアの問題以外にさらに憂慮すべきことがある。それは日本の政治は実質的

に“自民党の政治”しかないという事実である。

アメリカの政治であれば、たとえばクリントンの8年間とブッシュの8年間を比べて果たして国が良くな

ったのか、悪くなったのか国民の一人、一人が皮膚感覚で実感として比べることが出来る。クリントン

代には財政問題が改善されたが、ブッシュの8年間でアメリカは泥沼に陥った。だから民主党オバマ

賭けよう。非常に単純明快でわかりやすい。それが民主政治の基本だと私は思う。ところが日本は中国の

ような共産党一党独裁ではないから形式的には民主主義の体裁であるが、実態は自民党の政治しかな

い。よって比較対照の仕様がなく、何ともわかりにくいのである。小泉元首相のように“自民党をぶっ壊

す”などと威勢のよいシュプレヒコールを唱える人間が自民党の総裁になる。ところが現実には自民党

で派閥争いをしていたに過ぎなかったりする。“美しい国”をスローガンにしていた首相が僅か1年で胃

弱かうつ病で倒れたと思えば、その後を引き継いだ首相は同じ自民党でありながら何故か一言たりとも、

美しい国”とは言わない。前任者の方針を引き継ぐことは沽券に関わるとでも思ったのであろうか。そ

のくせ自分も根性の無さだけは見事に真似してきっかり1年経った時点でギブアップして政権を放り投げ

る始末である。これでは国民に政治に関心を持てという方が無理である。

日本の政治の致命的な欠陥は国民が比べる視点を持てないこと、もう一つは政治そのものに中、長期的な

方向性(戦略)が欠落しているということである。それで野党の攻撃や支持率の数字に振り回されて場当

たり的なごまかしに逃げ込むような政治になってしまう。これでは日本は本当に滅んでしまうぞと言いた

い。

今こそ日本は民主主義のあり方を根本的に見直すべきではないのか。先ず大統領制のように首相の任期を

4年に定めて国家の方向性をきちんと固定させるべきである。また首相が各省の事務次官を任命して全て

の官僚を戦略的に掌握し、動かせるような権力構造が望ましいと思う。国の根幹が定まらなければ地方分

権もあり得ない。このシステムでは首相の権限と責任が飛躍的に強化されるであろうが、首相個人の卓越

した器量、人格が要求されることになろう。世襲のおかげで自民党議員になって順番待ちでポストが与え

られるような虚弱体質では到底無理なような気もするが、これが日本と世界の政治力の差である。程度の

低い政治家を徹底的に淘汰するような制度にする方が将来的には日本のためになるように私は思う。

現状の日本は、戦後における長期政権のメディアと自民党政治が結びついて一種独特な“社会主義的民主

主義”が形成されている。前回の記事で前航空幕僚長・田母神氏の論文問題を取り上げたので具体的に例

示して見ることにする。

田母神氏の参考人招致での質疑はNHKで放映されなかった。NHKは独自の判断で放映しないことを決

定したと言っているが、政治的な圧力の結果であることは間違いない。田母神氏の論文が表現の自由と文

民統制の問題であるとするならば、国民の前に公然と放映されない事実から見ても問題の本質が言論抑圧

であることが示されている。なぜなら国民の我々は事の真相を知る権利があり、そのためのNHKであり

受信料支払であるからだ。国民の基本的な権利を損ねてまで隠蔽的に進められるものの性質が、常識的に

判断して民主主義的に健全なものであるわけがない。また本来、文民統制とは軍部が政権の意向を無視し

て軍事力を発動させたり、あるいは政治に介入しようとした時に使われる言葉である。現在の日本の自衛

隊が政治的な権力や発言力を持っているとは到底思えない。ましてや文民統制なるものが一個人における

内面の思想や信条にまで踏み込んで罰するものではないはずだ。そもそも田母神氏の論文は世間一般に公

表されることを目的に書かれたものではないのだから、政治的な意図があったとは言えないはずである。

精々、内規違反の厳重注意ぐらいで済むべき話しだ。それをメディアがわざわざ発掘してきて政治的に利

用しているだけのことである。

1950年代にはアメリカで“赤狩り”の嵐が激しく吹き荒れた。政治の世界だけではなく、映画俳優や

脚本家、演出家にまで共産主義の匂いがする者は徹底して弾圧された。今の日本で行われていることはま

ったくこれと同じである。公務員である教職員が国の指導を無視して卒業式で国家を斉唱しなかったり、

起立しなければ賞賛されるが、どういうわけか自衛隊幹部の、良心に従って国益のために考えているに過

ぎない内面の信条が政府の見解に従わなかったという理由で暴露され犯罪者のように弾劾される。これで

は国家的な洗脳が権力とマスコミが一体となって進められているのと同じではないのか。純粋に国家的な

良心を有している者が、組織の影響力を高めることや利益追求しか考えていない者に利用され汚されるこ

とは到底、我慢ならない。私は田母神氏の論文内容に全面的に賛同するものではない。というよりも正直

なところ歴史についてはわからない。わからないが歴史を全て知悉しているがごとく他者の信条を批判す

る人間は信用できない。また個人の思想、信条をスケープゴートにして組織的に弾圧するやり口は姑息だ

と思う。そういう小利口な精神が日本を駄目にしている諸悪の根源だ。

シビリアン・コントロールが聞いて呆れる。国民不在の仰々しい屁理屈に過ぎないではないか。国民が真

に求めているものは将来に国益として大きく実るような志と合理的な政策である。部数や視聴率はどうで

もよいのである。見解に相違があれば議論すれば良いのであってメディア組織が公人と言えども一個人の

信条に圧力を掛けるのは思い上がりも甚だしい。

そもそも報道と言うものは基本的に事実だけを淡々と述べれば良いのである。判断するのは国民のはず

だ。一定の影響力の元に社会に意見する事なら許せるが、大衆工作的に情報を発掘、利用するのであれば

きわめて問題は大きいと言えると思う。

最後についでに言っておくが、日本人でありながら基本的な常套句の読み方すら知らないような人間が日

本の首相に納まっていること以上に“不適切な”ことはあり得ない。日本の恥であるし、諸外国にも失礼

だからとっとと自民党の慣例に基づいて辞めて頂きたいものだ。