龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 116


長期間に亘る離婚の紛争劇を経験すると、社会システムが家庭に投影する歪みや欺瞞が身に沁みてよくわ

かる。しかし個人的な問題の渦中にあって、自らが直面する問題を材料に客観的な社会批判をすることは

難しい。なぜなら一市民が個々に属する問題に過ぎないものを、社会制度の不備や欠陥、あるいはメディ

アなど社会正義を代弁する組織の欺瞞性に原因を置き換えて、牽強付会や我田引水の理屈で糾弾すること

は基本的に許されないと思うからである。

そういう認識というか良識は私にはある。だからこれまで、私事の離婚裁判に関することは書かないよう

にしてきた。しかし今やっと離婚が確定し、片が付いたからにはやはりどうしても言わなければならな

い。私は個人的なトラブルや紛争の遠因を一方的に社会システムに押し付けるような卑怯な真似、すなわ

ちそのような小さな悪を犯さないように身を律してきたつもりである。ならば今こそ言うが、官僚などの

権力や一部の圧力団体、メディアなどの大資本が結託して、自らに都合の良いおためごかしの道徳で公然

と社会支配を為し、国民生活そのものを洗脳によって統制・利用することは、個人レベルが自らを正当化

するために働く悪の力学とは比較にならぬほどの巨悪であるのではないのか。私がこれまで悪とまったく

無縁に生きてきたとは言わないが、平然と悪の核心を隠して善に化けるような妖怪とは戦わなければない

し、退治しなければならないと思う。お前のほうがよほど妖怪だと言われるかも知れないが、それならそ

れで結構だ。俗悪で恥知らずな人間よりは、ベムやベラのような良心的な妖怪であるほうを私は選ぶ。

離婚が確定したからといっても、決して晴れ晴れとした気持ちで書くことは出来ない。むしろかなり気は

重いが、私は通過した者、乗り越えた者として自分の問題を自分だけの問題で終わらせないためにもやは

り書かなければならない。

私には書く責任がある。あなた方、心ある者は謙虚に私の言葉に耳を傾けるか、それとも無視するかを決

める全き自由を有する。ただそれだけのことだ。

最初に断っておかなければならないことがある。私はこれまでの紛争劇を、骨格となる事実に即して淡々

と書き進め、その上に自らの想像や洞察、見解などの肉付けを施し、一つの小さな作品を作り上げたいと

思う。私は嘘を書くつもりはないし、自らの表現内容に対して誠実でありたいとも思う。しかし言うまで

も無いことだが、それらは所詮私の視点から離れられないものである。“私の視点”は死ぬまで私につい

て回るのである。妻には妻の視点があるし、弁護士には弁護士の視点がある。しかし一旦そういうことを

言い出すと、芥川龍之介の小説『藪の中』のようになってしまって結局、自らの恥を晒してまで何かを語

る意味を喪失してしまうことになる。そこには沈黙という虚無があるだけだ。私が経験した紛争劇は入り

組んだ話しであるので、それぞれ登場人物の主張に相違があるのは当然である。よって私が述べる事柄は

三者が全面的に信用するべき筋合いのものではないことを最初に言明しなければならないのかも知れな

いが、行き着くところはもう全て終わったことだということだ。法的な解決はついた。正直なところ今

更、過去を蒸し返て悪夢のような法廷闘争を再現したくはない。個人的にはうんざりだ。だが私は一人の

ナショナリストとして、個人の問題を離れて黙っていられない峻烈な心情がある。以下において私が述べ

る内容は、少なくとも全体的な流れというか大まかな概略において誰にも否定できない真実である。それ

以上の細かな事実関係の判断については、読者の直感と洞察力におまかせしたい。読む者の実直な感想

が、個人的な内面の思想傾向と社会全体の偏向の関係性を映し出す大きな鏡であるような記事を私は意識

して書きたいと思う。要するに私が書く内容が、個人的に都合が悪いか認めたくない人々にとっては嘘だ

と思えるような社会的な機序を炙り出したいのである。私は書くことによって試され、あなた方は読むこ

とによって試される。私の表現は、真剣勝負の命がけである。

もう一点重要なことは、これは世間一般の印象とかけ離れているかも知れないが、私は少なくとも“道徳

的”には妻を初め、誰一人として批判するつもりはないということである。私が道徳的に誰かを批判でき

るような人間でないことだけは唯一はっきりしている。人は皆、それぞれの道徳に従って生きている。仮

に私が誰かに対して、あなたの道徳はまちがっている、などと指摘したとしても、ああ、そうですか、と

返されればそれで終わりである。しかし人間は社会的な生き物であるから、異常者でもない限り、社会か

らまったくかけ離れた道徳があり得ないのも事実である。道徳やモラルの本質は高度に社会的なシステム

であって、マナーの悪さを注意するような簡単なものではないのである。私が誰かを道徳的に批判できな

くとも、その道徳がどのように作られているのかを見抜くことはできる。現行の道徳的社会システムが、

本当に我々の幸福に寄与するものであるのか、為政者の都合に過ぎないのかを論ずることは許されるはず

だ。道徳というよりはそのような“道理”的な思索こそが本当に必要な視点だと私は考えるものである。

たとえば目の前に壊れたパソコンがあったとして、そのパソコンを憎んだり罵倒しても絶対に回復しな

い。パソコンが壊れるには、壊れるだけの理由があるのである。またパソコン自体は自らが壊れているな

どという認識はない。パソコンを利用する人間にとって壊れているように見えるだけで、パソコンは諸種

の条件に“正確”に反応しているのである。パソコンを回復させるには怒りやモラルに訴えるのではな

く、パソコンの内部構造を理解する以外に道はない。社会システムについても本来同様であるはずなのだ

が、システムを管理している者は絶えず大衆の道徳心に訴えかけることによってメカニカルな本質を理解

する目を曇らせようとする。なぜなら隠された“本質”こそが彼ら(あなたがた)の権威や利益を不可視

的ピラミッド構造の底辺となって支えているからである。このあたりの多重構造的な正義や真実の感覚は

裁判を経験したものにはよくわかることであろう。

妻は最後まで離婚に応じようとはしなかった。妻は、女にとっては籍が自分を守ってくれる砦だ、という

ような意味のことを私に言っていた。私がそれを弁護士に伝えると弁護士は首を傾げていたが、妻は正直

なのである。妻は自分の皮膚感覚でそうだと思うことを周りの状況とは無関係に口にするのである。弁護

士の仕事は法という社会的建前の領域で論理を組み立てることなので、女の本音が建前から乖離しすぎて

いると首を傾げるしかないことになる。しかし妻が言う通り基本的に国家権力は婚姻下にある女の味方で

ある。国が女性に期待する出産や子育てと関係しているとは思うが、女のわがままや嘘には寛容である。

極端なことを言えば、自分の子供や夫を殺しても心神耗弱が適用されて無罪(不起訴)になる可能性が高

い。状況は変化してきていると思われるが、心療内科への通院歴があるというだけで子供を殺しても新聞

報道されないケースはこれまでかなりあったであろうと思われる。その一方で生殖や子育てとは関係の薄

い年齢層の女性、はっきり言うとおばさんや年寄り女性はそれほど極端な保護対象とはならない。おばさ

ん以後は社会学的にいうと女ではないのである。