龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 122


しかしである。はたして“不安”そのものは排除されるべき悪なのであろうか。私のこれまでの人生には

絶えず不安がつきまとって離れなかった。ムンクの絵のようなものだ。安心が健康的な善であるという社

会概念からは、必然的に不安は不健康な病理を意味することになってしまう。ならば私は基本的には不健

康で病的な精神の人間なのであろうか。

人間の根源的な感情の一つに“恐怖”がある。誰しも骨身に沁みるような本物の恐怖を味わいたいとは思

わないであろうが、恐怖が生存本能に結びついていることは言うまでもない。死を恐れる感情が生きる能

力を育んでいる。恐怖は肉体に密接しているから誰にとってもわかりやすい。

それでは一体、不安は何に結びついているのであろうか。一口に不安と言っても様々であろうが、私は

“漠とした不安”は、その時代や国の社会様式と目に見えない鎖で繋がっているのだと考える。不安感情

は社会(身の回り)に対する言葉以前の、高感度のセンサーとしての側面が本質的にあるはずだ。しかし

権力や精神医学は不安を個人的な病理現象として看做そうとする傾向が強い。適切な例えかどうかはわか

らないが具体的に説明すると、ロシアン・ルーレットに参加する人間が極限の恐怖を感じるであろうこと

は否定しようがないが、ロシアン・ルーレットの仕組みが複雑かつ高度に社会化されて国家や制度、社会

意識、道徳などが関わってくる壮大なゲームになると、そこにあるのは恐怖ではなく不安である。そして

その社会の中で不安を感じる人間は、不安の発生原因が社会構造にあるのか自分自身の精神上の問題なの

か、見分けがつかなくなってしまうことになる。そうなると不安の評価軸はその不安が正当なものである

かどうかよりも、一人の人間が社会環境に適応できているか不適応であるかという規格にごまかされてし

まうことになるのだと私は思う。

確かに現実的に考えれば、現代社会において不安を鈍磨させなければ生き難いことは事実である。私の例

で言えば、先に述べたように映画館内で不安が高じて90分座席に座っていられないと訴え、どこかの精

神科に行くとすれば、医者はそれは不安神経症だから薬を処方しましょうということになるであろう。こ

の薬を飲めば今後そのような場面に遭遇しても不安を軽減させることができますよと。

しかし精神科の医者は、その映画館経営者や映画館を設計した人間が悪いのであってあなたの不安は健全

なものです、とは絶対に言わないはずだ。

そんなことを言ったところで商売にならないからだ。医者の仕事は商売である。私の偏見も多少あるのか

も知れないが、肉体ではなく目に見えない精神を扱う医者(精神科医)は基本的に病理そのものを権力と

折り合いをつけながら拡大再生産させようとする路線に乗っているように思われる。要するに最終的には

人間精神の何が正常で、何が異常かを判断する基準は国家権力の都合をおいて他に何もないからである。

戦争時の殺戮行為や、刑事事件における心神喪失の適用がそれらのことをよく象徴している。

もし映画館で何人もの人間が死ぬような火災が実際に発生すれば、当然その映画館は警察に捜査され防災

上の責任を問われることは有り得るであろう。しかしだからと言って、火災発生前にその映画館内で建築

構造に不安を感じて退席した私に下された不安神経症の診断がくつがえることはないのである。

精神科に行って不安を訴えれば不安神経症であって、その不安が正常か異常かは医者には無関係である。

私は精神科の医者に罹ったことはないが恐らくその程度のものであるだろうことは普通に考えれば誰にで

もわかることである。

結局何が言いたいのかと言うと我々の不安は、マスコミや権力によって一括りに管理され操作されている

側面が大きいゆえに、本来的な“不安の機能”が損なわれ気味であるということである。

以前に大阪、難波の個室ビデオ店が放火にあって、たくさんの人が亡くなった。私は旅館やホテルに泊ま

っても非常出口の場所を確認する方なので、あのような場所で寝る気にはなれないであろう。観覧車に乗

れないというと極端な臆病者に思われるかも知れないが、エキスポランドのジェットコースターの死亡事

故が起きる一週間ほど前に、私は両親と息子と一緒にエキスポランド内の観覧車に乗っていた。その時に

何気なく高所から風神雷神を見下ろしていて、観覧車に乗っている不安が風神雷神の方へ移っていくよう

な感覚を受けたことを記憶している。事故を予知したといえば嘘になるが、後から考えれば私は事故発生

前の風神雷神を“不安の対象”として見るべき機会を無意識に選んでいたような気がしてならない。

現在、(元)妻と息子が住んでいるマンションは確か13階建てであったと思うが、私が購入したのは住

居最下階の2階にある物件である。マンション価格は最上階と最下階で2000万円ぐらいの差がある。

当然、上に行くほど高い。原価は同じであっても上層階を希望する人が多いから(人気があるから)、経

済原理的にはそういうことになる。しかし私にとっては最下階ほど価値が高い。なぜならエレベーターは

災害時に危険だと思うからである。大地震発生時に運悪くエレベーターに乗っていると、観覧者と一緒で

閉じ込められる危険性が高い。もちろん建物自体が倒壊してしまえば、エレベーターであろうが室内であ

ろうが閉じ込められる危険性は同じだが、エレベーターは電気系統の故障と物理的倒壊の二重の要因があ

るので生活手段として頻繁に利用することが私には怖いのである。だから息子にも(住居階は)2階なの

だからエレベータを使わずに階段を使えと言っている。

もちろん心配性の度が過ぎれば都会生活など到底出来ないのであって、私自身傍から見れば不用心で鈍感

な所は多々あると思われるが、自分の不安感覚をレーダーとして事前に察知する危機管理能力は人並み以

上にあるような気がする。そのような危険を回避する能力は、本来全ての人間の内面に不安を告げる声と

して存在するのであろう。ここから先は心理学的にもう少し奥深い話をしたいと思う。