龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 140


先日、クエンティン・タランティーノ監督の新作、『イングロリアスバスターズ』を見た帰りに映画館近

くにあるバーに入った。私は映画館にはほとんど一人で行くので、映画を見終わった後に酒を飲みながら

誰かに感想を聞いてもらいたくなるのだ。それでその映画館で映画を見た後には、必ずそのバーに立ち寄

ることにしている。

私の話し相手のバーテンダーは20代半ばの男である。映画にもなかなか詳しくて、いつも私の話しを興

味深く聞いてくれる。『イングロリアスバスターズ』は総体的に面白かった、タランティーノの映画に対

する愛とオマージュが感じられた、映像全般に漲る緊張感が心地よくてだれない、ブラッド・ピットのに

やけた顔は個人的には好みではないのだがあれくらいの露出であればまだ我慢できる、ナチへの復讐に燃

えるフランス人女性、メラニー・ロランの美しさを堪能するだけでもこの映画を見る価値がある等々、い

い映画に酔った後は強くて旨い酒で映画の神に感謝すべきだとばかりにバーボンの“ブッカーズ(アルコ

ール度数63度)”をロックで飲みながら私は語り続けた。

会話はいつしか小説の話しに変わり、私は三島由紀夫について話していた。三島は1925年生まれだか

ら昭和が始まる前年に誕生し昭和の歩みと共に年を重ね、1945年の20歳の時に太平洋戦争の終戦

迎えることになる。それで1970年に45歳の三島は激烈な自決を遂げて人生を終えた。天才の人生に

は運命付けられた年号との符合があるのだろうか、三島の魂は“昭和”という日本の一時代そのものであ

ったのである。

そういうことを話しているとバーテンダーは、

「それなら今の日本の作家で天才はいるんですかね。村上春樹は天才と言えるんですか。」と聞いてき

た。

私は「うーん、どうかな。」と唸ってしまった。というよりもデビュー当時から比較的昔の作品(『19

73年のピンボール』から『ノルウエイの森』あたりまで)は読んでいたのだが、最近出ているもの(I

Q84)はよく売れているらしいが私はなぜか手にとって読もうという気にならないのである。ブームに

同調するのはいやだという、ひねくれた心理もあるのかも知れないが今やちょっと読まず嫌いになりかけ

ている。ノーベル賞候補になる位だから世界レベルの普遍的な価値があるのかも知れないが、天才という

称号は良くも悪くも村上春樹には相応しくないような気がする。大衆受けし過ぎるからそう思うのかも知

れないけれど。

バーテンダーの男は意外に読書家のようで

「実は僕は、村上龍をよく読むんですよ。大学の卒論も村上龍について書いた位ですから。」と言うの

で、私は思わず、

「へぇー。」と声を上げた。

私も大学生位の時には村上龍の作品はよく読んだものであった。村上龍が『限りなく透明に近いブルー

でデビューした1974年頃は、私よりも20歳も年下のバーテンダーの男はまだこの世に生まれていな

かったはずだ。そのような世代の人間が、何の学部か知らないが卒論で村上龍について書いたというの

が、私にとって新鮮な驚きであったのである。

それで私が

「確かに『コインロッカー・ベイビーズ』の頃の村上龍は天才だったからな。」

と言うと、バーテンダー

「いやーそうですね。僕も何回も読み返しましたよ。」

と意気投合した。私は1回しか読んでいないが20年以上経った今でも、登場人物であるハシ、キク、ア

ネモネの名前や世界を破滅させる朝鮮アサガオの猛毒ダチュラのイメージが鮮烈に記憶に残っている。そ

の他にも私が好きであった『テニスボーイの憂鬱』や『愛と幻想のファシズム』などについても語り合っ

た。私は読んではいないが、バーテンダーは『5分後の世界』が大好きなようであった。

しかしふとバーテンダーは寂しそうに

「でもね、今の“カンブリア宮殿”に出ている村上龍には魅力を感じないんですよ。」と呟いた。私にも

その気持ちはよくわかった。その昔、“Ryu’s Bar”に出ていた頃は見る気にもなったが、今は

私もとてもそんな気にならない。私はバーテンダーに言ってやった。

「あれはな時代と寝る男なんや。まあ、わかりやすく言うとお調子者や。」

バーテンダーはさすがに卒論のテーマに村上龍かその作品を選んでいるだけあって、私の言わんとするこ

とをその一言で理解したようであった。改めてわかりやすく説明するとこういうことになる。一時期の村

上龍の作品やエッセイなどのキーワードは、“弱肉強食”、“快楽主義”、“才能至上”などであった。

それらのストレートでわかりやすい生き方というか発言がバブル景気華やかなりし頃にさんざんもてはや

されたのである。時代の空気に敏感に反応していただけだと言われればそれまでだが、天才を自任するか

の一人の表現者とすれば社会の風潮が変わろうとも自らの思想やスタイルは貫き通すべきだと思うのであ

る。私は今の日本のように不景気で自殺やうつ病者が蔓延する時代にこそ快楽主義的な思想が光り輝くと

思うのだが。私自身は快楽主義者ではないが、日本の文化を考える上で、村上龍の変節とまでは言わない

までも凋落ぶりは看過できないものがあるように思われる。

もちろん年を取るごとに肉体は衰えてゆくからいつまでも私生活で快楽や美食を追及し続けることは現実

的には難しいことはわかっているが、彼はそのような精神を文学を通じて若者たちに伝える役割があるの

ではないのか。私が思うに『13歳のハローワーク』あたりから表現者として完全に堕落しているようで

あり、カンブリア宮殿で財界におもねているようでははっきり言って凡人以下である。そのような活動を

いくらしたところで日本の教育にも経済にも何ら貢献するところはないはずである。彼はいつからか自分

の進むべき道から逸れてしまっているように思える。

と往年の村上龍のような辛口のコメントをしたところで私自身が偉くなるわけでも、日本の文化が活性化

するわけでもないことはよくわかっている。それに彼には彼なりの人生や生活があるのだから性格の優し

い私にはこれ以上のことは言えない。ただ日本の文学というか表現そのものが死んでしまっていることだ

けは伝えておきたい。

繰り返すが三島由紀夫は1970年に45歳で自決した。仮に2000年まで生きていれば75歳までの

30年間であまたの歴史に残る作品を書き、当然のようにノーベル賞も受賞したことであろう。しかしそ

の30年の間に社会的な圧力で変節を余儀なくされたことと思う。天才にはそれが耐えられなかったのだ

と思う。しかし一方で今の時代にあっては、たとえ無様な姿を晒し続けても生き続けることこそ偉大な才

能であるとも言える。決して皮肉などではなく村上龍は我々にそのようなメッセージを与え続けてくれて

いるのだと考えることもできる。でもなあ、何だかなあ…。

さて、また次の映画帰りにあのバーテンダーの男と村上龍の悪口で花を咲かせることにするか。楽しみだ

な。