龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

封印された未来

子供手当てがばら撒きだと言う人が多いが、問題は子供手当てが何故、ばら撒きに見えるかということだ。子供手当てに限らず、国の政策というものは須らく、明確な根拠と具体的な目標、そして目標達成の期限が明示されなければならない。子供手当てについて言えば、日本の出生率を引き上げるための社会政策の一環として意識されなければならないものであるはずだ。
少子化は日本だけの問題ではないが、フランスでは90年代半ばに大幅に落ち込んだ出生率(1.6)を国の大胆な子育て支援で10年間で0.4ポイント回復(2.0)させた事例がある。10年間で0.4ポイントの上昇は、容易なことではない。そこには子供を国の未来に対する最重要の投資と考え、毅然として実行する大統領の強い政治があってこそ可能であったのだと思われる。ところが日本の政治は、目前の権力を掌握するためだけの詭弁や屁理屈で常時、覆われているので、中、長期の社会計画が立てられず右往左往ばかりしている。それでどうしても大衆の無知につけこんだり、政治がメディアと結託して国民全体が社会の本質を見極められない蒙昧の状態に押し留めようとする力が強く働くことになる。
出生率の低さが日本が抱える問題の根本である、と私は考えるものである。なぜなら子供を産んで育てようという気持ちこそが、日本の希望そのものであり、また経済や福祉、雇用などの問題の核心だからである。子供が一人生まれ、育ちゆくには衣食住についてどうしても節約し切れない金がかかることとなる。また、生活するためには半径数キロの圏内に、学校や病院、スーパーなどが必要とされる。金や情報は瞬時に国境を飛び越えるが、人間の肉体は不自由なもので物理的制約を離れては生きていけないのである。これが実体経済というものだ。この実体経済に対置する考えが、国際化(グローバリゼイション)という言葉のイメージの中にある。言葉の独り歩きによる弊害というものがあるなら、“国際化”がその最たるものであると私は思う。鈍重な肉体が、金や情報の如く国境を飛んでゆくかのような錯覚的感性は、人間を係数的に捉えようとする官僚的な思考から生み出されたものである。長年に亘る係数支配の結果、日本は国内が完全に空洞化してしまって仕事がない、あっても派遣の仕事しかない、将来設計が成り立たないから結婚できない、あるいは子供を作れないという状況になってしまったのである。
人間を中心にした政治を目指すのであれば何よりも子供を産みやすく、そして育てやすい環境を作っていかなければならない。そのためには先ず国内に仕事がなければならないし、小さな子供をもつ女性が働きやすい職場環境も必要とされるであろう。保育園の数も増やして、待機児童の問題も解決しなければならない。要するに日本が仮に出生率を、10年後の2020年に2にするという目標設定をしたとすれば、そのために今何をどのような順序で進めて行くべきかというビジョンが見えてくるはずだということである。国内の景気が良くならなければ出生率は上がらないし、出生率が現在の1.4位のレベルで維持されるのであれば社会保障の基盤そのものが成り立たないはずなのである。経済や国民生活、福祉のあり方は、内臓の部位のようにそれぞれが独立しながらも有機的に連携しあって全体の生命を司っているのであるから、定点観測のような官僚視点で導き出された数字だけを追っていると国が良くなってゆく好循環の道筋が見えなくなる弊害が大きい。
菅直人が夢のお告げのように唐突に消費税増税を打ち出したことは、私はほぼ自信を持って言えるが、日本の将来を段階的に良くする青写真を頭の中で具体的に描いてのことではなく、単に財務官僚に取り込まれただけの話しであろう。現在の民主党執行部は明らかに脱官僚から、思考能力の低い大衆層を騙して政権を維持する方向に転換しているように思われる。官僚は数字しか見ていないから消費税が1%上げれば税収増がこれだけは見込めるというレベル以上の発想はない。高齢者医療がどうのこうのとか、低所得者のための軽減税率などというのは言わば付け足しの話しに過ぎない。政治家のトップに全体を俯瞰して日本を成長へと導く知性と感性が欠落しているから、スポンサーとしての大企業や官僚に言い含められ、またメディアの支持も得て易きに付いてしまうのである。そういう意味では、菅直人など総理大臣とすれば歴代まれにみるような器の小ささであろう。敵を少なくすることしか考えていないように見える。鳩山由紀夫は、へなちょこではあったが国民のための政治をしようという健気さがあった。菅直人はそういうまどろっこしい健気さをかなぐり捨てて総理の座についたのであろう。市民派か何か知らないが、権力を得た途端に強い者に阿るという態度は、貧乏人のいやらしさである。もちろん貧乏人と言っても鳩山や麻生に比べればの話しで、我々一般の庶民から見れば十分金持ちではあるが、メディアは麻生や鳩山が金持ち過ぎて市民感覚がわからないとさかんに批判してきたが果たしてどうであろうか。確かにそういう一面もあるかも知れないが、麻生や鳩山のように大資産家であればこそ大企業の論理に取り込まれることなく国民生活に目を向ける政治が可能となるとも言えるのではないか。よって政治家がもともと金持ちであることは悪ではなくて、政治家がその権力で一部の大企業と癒着して国民生活を犠牲にすることが悪なのである。
前回にも書いたが、国会議員の権力の源は国家予算の配分権にある。平均すれば一人当たり1200億円ぐらいの割合も大臣や総理になればその数十倍にも膨れ上がるであろう。政治家が高級料亭で接待されたり、高級クラブのホステスたちに立派な人物に見られるのは、彼らの知見や品性にあるのではなくて国家予算に裏付けられた威光によるものである。私財をなげうち、時に選挙違反で逮捕される危険性まで犯して政治家になろうとするインセンティブが、数千億円の予算を動かす権力にあるのだから、政治家が大企業と癒着するのはある意味で自然なことなのである。これまでの自民党時代の日本は大企業の利益が牽引して国内の中小や零細企業を育て、また雇用と庶民の生活を作っていたのだからそれでよかったのである。政治と大企業と官僚の三位一体で日本は順調に回っていたのだ。ところが今やその方法では日本は食べていけない時代になっているにも関わらず、利権構造だけが強固に取り除かれることなく、邪悪な大蛇のように横たわっているのである。民主党政権の誕生は、本来その大蛇を退治する使命のもとにあったのだが、鳩山や小沢は返り討ちにあって大蛇に食べられてしまったのだ。そこで菅直人はサラリーマン総理のように見事に転身し、大蛇側についてしまったようだ。
もう我々は決して誰かに何かを期待してはならない。はっきり言うが、自分たちが賢くなる以外に生きていける道はないのである。賢くなければ、騙されても文句を言えない時代に我々は生きているのだ。日本の経済力というパイはどんどんと縮小してゆく。全体のパイは小さくなってもメディアなどの大資本は巨大な図体を維持しなければならないので、必然的により独占的に富を吸収する社会システムを構築しようと世論を巧みに誘導するであろう。消費税増税はそのプロセスの中の1ステップに過ぎないのだ。貧富の差はますます拡大してゆくであろう。貧者がより一層の貧者にならなければ、大資本が生き残れない構造下にある。この流れを断ち切るためには我々庶民は以下のことを要求するべきである。
消費税の税収を全て地方財源として、一人当たりの国会議員の予算配分割合(権力)を薄めるとともに、消費税は福祉目的税化するべきである。よって国会議員の定数は削減するべきではない。議員数が削減されれば、日本の民主主義は根本的に破壊されることになる。なぜなら今以上に、特定勢力の意向によって蹂躙され、操作されやすい政治となることを意味するからである。民主主義とは様々な立場の人の思想や意見を取り込んで、総合的に国家が発展していくように機能しなければ見掛け倒しとなるものである。特定勢力とは国内の大企業だけではなく、盟主国のアメリカであることは敢えて言うまでもないであろう。企業団体献金は、即刻廃止すべきである。企業献金がある限り、政治がどうしても大企業を優遇するものになってしまうことは水が高きから低きに流れるのと同じぐらいに自明のことである。大企業が発展して庶民の生活レベルが向上した時代は古きよき昔の話で、今や大企業の低成長の穴埋めに我々の税金がつぎ込まれることとなる。それもこれも企業献金が認められているためである。企業献金を廃止して、全ての有権者が収入の1%を当人が選択した政党に支給する法律を作るべきだ。専業主婦や失業者のように収入がない人は当然支払い義務はないが、収入があるにも関わらず支払を忌避する人は投票権を喪失するものとすればよい。この方式を採用すれば日本の民主主義の意識レベルは必ず向上していくことであろう。投票率も上がるであろう。共産党政党助成金の交付を受け取らずに党員の収入1%の上納金と赤旗の収入だけで運営されている。この法律が施行されれば日本の民主主義の質が上がって、政党助成金が大幅に節約されることになるのだから悪いところは何もないではないか。各政党が資金を集めるために大衆迎合に堕すると言う人もいるであろうが、日本人はそれほどの馬鹿ではないとだけ言っておこう。また各政党は政治資金の収入と支出を4ヶ月おきに1円単位で全ての明細も含めて一斉に公開するものとする。政治と金に関して不正がないかどうかの第三者的な中立性が保たれる監視機関を設けるものとする。ここが一番、大事なところである。これまではマスコミが実質的に政治と金の問題についての懲罰機関として恣意的に政治に介入し続けてきた。その結果、政治改革の継続性と国の進路が失われ、大衆を騙しその場しのぎの詭弁で既得権益を守ろうとする勢力に我々の生活が侵食されることとなっている。政治と金の問題を大衆を洗脳するかのごとく言い続けるのであれば、政治家の不正に対する摘発は国民生活に多大なる影響力を及ぼすものであるゆえに、そこには中立性と公平性が大前提となるものであることはあえて言うまでもないことであろう。マスコミが自らのご都合主義で政治に介入する“正義”を打破しなければ日本の政治は変わり得ない。私はこれらのことについてW杯サッカーをTVで見ながらレフェリーの判定について考えている時に、天啓のように思いついたものである。企業団体献金は全廃する、有権者が収入の1%を自らが選んだ政党に支給する、4ヶ月ごとに1円単位で各政党が一斉に収入と支出を全明細を含めて公表する、第三者的な政治と金の不正摘発機関を設ける。この4つが実現されれば、国民にとっても政治家にとっても政治意識は劇的に変わるものである。そして日本が成熟社会へと向かっていくことはご理解いただけるものと思う。
しかしこのアイデアは決して日の目を見るものでないことも私にはわかっている。なぜならマスコミの権益を大きく損なうものであるからだ。表面的には見えないマスコミと政治の癒着関係もあるであろう。私が書いていることはタブーに触れているのである。よって、このような意見は伝染病のウイルスのごとく大衆に感染しないよう当局に監視され封印される運命にあるものだ。それは100も200もわかっていてもやはり私としては書かずにはおれない。新聞社を筆頭とするメディアが錦の御旗とする公共性も上記のごとく正当性を喪失しているのだから再販制や特殊指定も見直されるべきである。私の意見に賛同される方は、私の記事を無断で出所も示さずにどんどん流用していただいて大いに結構だ。私は新聞社のように、著作権がどうのこうのというような心の狭いことだけは言いたくない。日本の未来のためには、著作権もへったくれもないからだ。封印された未来をあなたたちにも引き継いでいただきたい。