龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本の新しい形

財政再建と景気回復は、本来、相矛盾する対立政策ではなく車の両輪のように同時並行で強力に進めなければ国は浮揚しないはずである。身近な、わかりやすい例えで言えば、肥満体質の人が医者からあと10kg体重を落とさなければ命が危ないと忠告されたとしよう。その患者が、それではと一念発起して突然、修行僧のような絶食を試みて減量に成功するだろうか。強い意志さえあれば成し得るというような問題ではないであろう。
なぜなら生きている人間の肉体は機械ではなくて生命であるからである。減量しようと思えば、しっかり食べて、運動して、休息を取る、その全体的なバランスの中で体質を変えていかなければ健康な肉体を獲得することなど到底、不可能である。借金体質も肥満体質と同じであって、即物的、一時的な対応をしたところで結局は、リバウンドを起こしてしまって元の木阿弥になってしまうであろう。単に机上の数値を見るのではなく、生命の流れを読み体質を変化させることに全力を傾注しなければならない。そうでなければ肥満人間は年老いて生命力が低下し死にゆく時期にならなければ、あるいは大病を患うようなことがなければ痩せることは出来ないであろうということと同じことが、国家の借金体質についても言えるのではないか。もちろん肥満であろうが借金であろうが、体質を変えるということは並大抵のことではない。また、経済は時勢のムードや人間心理に影響されやすいことから見て、財政再建と景気回復が対立概念のようにどちらか一方に偏り勝ちになるのもある程度は仕方ないのかもしれない。思えば小泉元総理が“構造改革なくして景気回復なし”と連呼していたキャッチフレーズは、今となっては懐かしくもあり、どこか牧歌的で平和な印象に彩られていたように回顧される。あの当時にはリーマン・ショックのような世界同時不況が想定されていなかった。麻生総理の時には大掛かりな財政出動補正予算で新規の国債発行を伴って行われた。財務省の官僚にしてみれば、そのような緊急融資などのために10兆円単位で借金を増やしていたのでは、景気が回復するわけでもないし、いずれは日本もギリシャのように財政破綻すると考えるのは止むを得ないのかも知れない。民主党への政権交代があって、官僚にとっては自民党の政治家よりも菅直人のような政治家のほうが、おそらく力が足りない分だけ、くみし易かったのであろう。脱官僚どころか官僚にしてみれば千載一遇のチャンスであったのではなかったか。しかし官僚はどんなに頭がよくても自分の専門分野以外のことはわからないものである。全体が見えていないのだ。肥満体型の人間がその体質を時間をかけて改善してゆくような総合的な知恵を持ち得ない人種である。また日本国内がどれほど最悪の状態になろうとも、自分たちの給料についてだけは心配する必要がないという安心感の延長線上にある感性しか持っていない。高級官僚のナショナリズムとは基本的にはその程度のものである。よって本来、それら官僚的な感性の隙間を穴埋めするためにこそ政治家は存在すると言えるのだが、日本の政治家はその役割を果たせていない。まったくの能無しである。
その理由についてはいくつか挙げられるのであろうが、先ず第一に政治家の志の低さと勉強不足があると思われる。勉強しているように見えるのは、日本を根本的に良くするための政策ではなく、権力を掌握するための屁理屈だけである。菅直人の弁論能力など、せいぜいが夫婦喧嘩で女房を言い負かす程度のもの(それだけでも大した才能だが)で、新しい国を作っていくなどという気概は微塵も感じられない。第二の理由は第一の理由の原因にもなっているより大きな背景であるが、日本では国家大業の中・長期的な視点の下で立案され施行される方向性がきわめて成り立ち難い点が政治の世界に参入する人材のレベルを決定しているのではないかと考えられることにある。日本ではマスコミが煽動するその時々のムードやイメージだけで、政治の動向が方向付けられてしまう傾向がきわめて強いので、根本的に物事を考える分析能力ではなくタレントのように周りの空気を読むことに優れていてマスコミ映えのする政治家ばかりになってしまいがちである。政治が真剣勝負ではなく、ショーアップ化されたバラエティ番組のように堕落してしまっている。選挙のたびにたくさんのタレント候補が乱立するのはタレントたちが今の政治を見ていて、自分でも十分にやっていけるという自信を持つからである。国のことなど何も考えてなくとも流れに乗って当選すれば、議員バッジをつけて先生と呼ばれ、1人当たり数千億円もの予算を動かす威光を手に入れることが出来る。それは芸能界での成功と同じように“おいしい”のである。おいしいか、おいしくないかが全てである。そういう意味では日本の政治家とタレントはほとんど同類の人種であると言えるであろう。単に頭数を揃えるだけであるならば、極端に言えば人間でなくとも白犬であってもかまわないわけだ。バラエティ番組に出演する政治家たちが、天然温泉につかる日光の猿軍団と同じように皆、幸福そうな顔をしているのもそういう背景からきているのであろう。
日本の政治レベルは世界的に見れば、恥ずかしいほどに低い。しかしそのレベルの低さもそれなりに理由があるのだから、日本人は日本の政治レベルが幼稚なほどに低い現実とその原因にしっかりと目を向けなければ、サッカー同様に強くなってゆくことはあり得ないであろう。政治能力の世界ランキングというものがあれば、日本は大目に見積もっても50位ぐらいではないか。GDPが世界第2位で政治能力が世界50位だとすれば、実質的には日本はほとんど独立国家とは言えない有様である。我々はW杯のサッカーを観戦するのと同じぐらいの熱心さでもって政治の世界を見続けなければならない。そして世界レベルの器量を有していない政治家が、恥知らずにも世界の晴れ舞台に出て行こうとするならば、我々国民が声を上げてきちんと批判してあげなければならない。それが国民の役割というものだ。もちろん感情的に罵倒してもまったく意味はないのであって、きちんと論理的にある程度の見識能力をもって、あなたが政治家であることは日本の為にならないからお辞め下さい、と国民がレッドカードを提示するべきである。もちろん勇気ある優れたプレイ(政治)に対しては褒めてあげることも必要であろう。ここにおいて大事なことは、サッカーを見る時は誰もが自分の判断だけでプレイヤーの評価を下すことが出来るのに、政治の場合にはマスコミや検察の判断に引きずられてしまい勝ちであるということである。我々のその見方そのものが、政治の独立性を失わせる原因であることもよく自覚する必要がある。
ともかくも日本の政治風景は右往左往ばかりしている。民主主義とは右往左往しなければならないものと、一般的に受け止められているのではないかとすら思える節すらある。ここに日本の政治システムの致命的な欠陥を私は見るものである。たとえば中国は、自由主義経済と共産党一党独裁政治の混合で、気功集団、法輪功への弾圧など人権的にはかなり問題がある国家であるが、政治のトップが長期間に亘って全体を見る権力を有しているので強い経済と強い政治のもと現在の時点においては一応の成功を収めていると見れるものである。アメリカや欧州、韓国などの大統領は一旦選挙で選ばれれば任期期間中に日本の首相のようにころころと入れ替わったりなどはしない。4年なら4年の期間にしっかりと指導力を発揮した後に総括、評価されるから問題点も課題も明らかになる。ところが日本の総理大臣は、短命という大前提のもとに存在するようなトップなので延命しか考えれないことになる。政権が短命で延命を優先する政治とは、政治家が一義的に守るべきである国益を犠牲にしてまで権力に執着する欺瞞構造につながることになり、政治の本道から元々外れていると言えるのである。よってそのような政治風景のもとでは、日本の総理大臣に、日本の経済規模や国際的責任に相応した器量の人間など出てきようがない。菅直人のような典型的な風見鶏タイプのサラリーマン総理に結果的に落ち着いてしまうことになってしまうのであろう。
日本という国家が抱える根本的な問題を、今こそ我々国民は一致して問題として認める必要性がある。普天間基地財政問題も、その根は同じである。日本は、自分で自分のことを決めるという独立精神をまったく持ち得ていないということだ。しかし建前的には、日本は独立国家であるということになっているから、その見かけと実態をつなぐメビウスの輪のような捩れた回路にマスコミが国民の目を欺き世論を誘導しようとする役割が存在することになる。
日本という大きな心の原型は自主憲法の制定にある。憲法9条の改定は、日本の真の独立のためには避けて通れない道である。これが日本が抱える問題の根本であると私は考えるものである。唯一の被爆国として恒久の世界平和を追求する精神と、抑止力という言葉の下でアメリカの軍事力に依存し続ける国の形は両立し得ないものであることは明らかだ。憲法9条が改定されれば、徴兵制が復活されたり、戦争の足音が聞こえてくるかのような論調はインチキだ。憲法9条の改定こそ日本が自主独立国として世界平和を追求するための新たな出発点である。日本の自衛隊アメリカの世界戦略に振り回されて、他国の戦争に付き合わされることを拒むための手段であり、また日本人の生命と財産が他国の侵略行為によって危険にさらされた時には自国のみで守るという大前提で国防のあり方と日米同盟を再考しなければならない時期にきているように思われる。共産党社民党のように、アメリカにノーという政治を目指すと言いながら、アメリカに押し付けられた憲法9条を死守するという考えはどこまでいっても矛盾の輪の中から逃れられない主張であると思われる。普天間の未だ未解決の問題によって、国民全体が憲法9条改定に意識をシフトさせてゆく絶好の機会ともなっている。国民投票法は既に施行されている。国会議員は、この一番大切な問題から目を反らせたり職務怠慢に陥ることは許されないはずだ。最終的に判断するのは我々国民である。それが国民主権であるということは決して忘れないでいただきたい。