龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

愛の対立

もう、本当にあまりに馬鹿らしくて何も述べる気にはならないのだけれど、脱力感の中で気力を振り絞って言えば、震災の復興に関する日本の政治は、“大連立”などではなくて、きちんとした与野党対立構図の中で出来ることではないのか。また、そうすることが政治本来の責任じゃないのか。国民(復興)のための大連立などと立派な名目を立てても、政権が成立した途端に国民の目を欺くためのファシズム的な烏合の衆になるのは目に見えているではないか。今の政治ですらその傾向が濃厚なのに、なぜ、そんな明白なことが、わからないのか。
止揚”という言葉をご存知だろうか。この言葉の意味を全ての国会議員に聞いて、答えさせて見るがよい。日本の政治家のレベルが、よくわかるであろう。
政党間の政策対立が、単に対立のための対立に過ぎないのであれば、それは決して国民のための政治には成り得ない。純粋に国益や国民の福利向上を願うのであれば、対立を超えて協力すべきところは協力するのは当然であり、どこの国でも当たり前のように行われていることではないか。対立で政治が前に進まないから、対立そのものを消滅させてしまおうという考えは、あまりに幼稚で危険すぎる。衆参の“ねじれ”が、どうのこうのと、喧しいが、それは数の論理だけで、審議拒否とか与党の足を引っ張る権力闘争が前提になっているから、ねじれるのであり、結局、ねじれ現象とは、日本の民主政治の未熟さを物語る以上のものでは有り得ないと思われる。浮ついた理想論ではなく、政治は、数でも金でもなく、志であるべきだ。志がない人間どもが大同団結して、時の政権が絶対権力を掌中に収めることが、どれほど危険なことか。
馬鹿を相手に“高邁”なことばかり言っていると、私自身が馬鹿みたいに思えて恥ずかしくなってくるが、わかりやすい身近な喩えで言うとこういうことになる。男と女は生まれつき考え方や感性が異なる。だから男女間は常に互いに、反目し、排斥し合う関係にあると言える。しかし、本来的な性質が異なるからこそ、対立するだけでなく、相手の“男らしさ”や“女らしさ”に魅かれて、愛が生まれる。つまり男女間の愛とは、止揚である。愛を知らない馬鹿フェミニストは、男らしさと女らしさを消し去りさえすれば、対立のない、つまり戦争も搾取もないユートピアが出現すると思っている。それで政策的に大衆を啓蒙(洗脳)ばかりしようとするから、世の中がおかしくなる。政治上の対立という基本構図は、権力闘争を越えた、より大きな人類愛であるべきなんだ。
それが止揚だ。アウフヘーベンだ。バームクーヘンじゃないぞ。