龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

夢のまた夢

夢は面白い。私は興味深い“作品”の夢を見ることがちょくちょくある。自分で言うのも何だが私の見る夢は時にとても豊かである。象徴的な解釈において豊かなのではなく、どこかリアリティーが感じられる豊かさなのだ。今朝はこのような夢を見た。記録を兼ねて書いておこう。
夢の中で私は中国人である。宇宙開発の仕事に携わっているようだ。TV局のスタジオのような所にいて、私は公共放映で政府高官かマスコミ関係者からある結婚を勧められている。すると女性の顔が大写しになる。とても美しい女性なのだが、私はその女性に見覚えがあった。夢の中の私は、以前に夢でその女性を見知っていたのだ。その夢の夢の中で私はその女性からとても好感を持たれていて結婚の約束をしていたようだ。それがいきなり“現実”の中に現れてきて私は動揺している。密やかな夢の内容を公衆の面前で晒されたような心持がしている。そのせいか私はその女性と結婚する気になれない。結婚を勧める声に対して、私は「いや、あれは夢のことだから。」と懸命に弁明している。すると私に結婚を勧める人々はついに諦めて、別の宇宙開発の関係者とその女性の縁談をまとめようと相談し始めた。
以上である。意識が目覚めかけた夢現の状態で、私は寝床のなかで何とも言えない珍妙な感覚を持った。この夢の不思議なところは、私が夢の中で過去に見た夢の記憶を持っていることである。それで夢が“現実”に反転しているのだ。もう一つは私が夢の中で、中国人になり宇宙開発の仕事をしているということで、現実の意識からはとてもそのような発想が出てくる筈がないと思える内容であるということだ。人間の無意識の働きがどれほど神妙であるかは知らないが、これがもし本当に私の創造した“作品”であるならば、私はちょっとした天才であるのかも知れないとすら感じられたほどである。しかし実際には私は天才などではないから、この夢は何らかの現実の一側面なのかも知れない、もしかすると自分の来世の姿なのかなあ、などと目覚めつつある意識の中でそんな馬鹿なことをぼんやりと想像している私がいるのであった。
もう一つの夢はもっとシンプルな内容で、私は夢の中で息子と将棋を指している。現実に週末に息子が我が家にやってきた時に、息子から将棋をしようとせがまれることが多いから、その夢内容自体は不思議でも何でもない。不思議なのは将棋盤の升目と駒の位置が妙にはっきりしていることで、私は夢の中で真剣に次の一手を思考しているのである。そして息子が私の一手に対して、何ともリアルに感じられるいやな手を指してきて、私はまた盤を睨みながら熟考している。そういうことが何手か繰り返されて、はっと目が覚めた。目が覚めた時にはどのような駒の配置であったのかはすっかり忘れてしまっている。このように書くと、私がそこそこのレベルの差し手であるように思われるであろうが実際にはまったくの“へぼ”なのである。息子同様に私が小学生の時に父親から教えられてたまに遊んでいた程度で大人になってからはほとんどやっていない。将棋のプロは盤の升目が頭の中に入っていて駒を自由自在に動かせるようだが、私には到底そのような真似を出来るレベルではない。でも夢の中なら出来るのである。だから不思議なのだ。
ほとんどの夢は目覚めてすぐに忘れてしまうのだが、ごく希に印象的な内容のものを覚え続けていることがある。東北大震災5日後の3月16日に『酔っ払いの覚醒』と題した記事を書いたが、その中の内容で“朝方6時ごろに夢の中に神様が女性の姿で現れて言葉を賜れた”と記している。私はその夢内容を実は今でも覚えている。女性の姿の神様と述べたが、それは女神のようでもあり観音菩薩のように男女の性別を超越した仏のようにも感じられた。と言うのは、実は私は夢の中でそのお姿を見ていないのである。なぜなら私の対面に立たれたのではなく、その神仏は私の真横に並び立たれたからだ。それで、このような言葉を私に仰せられた。「誰もが本当はあなたに認められたいと思っているのですよ。」と。ただ、これだけである。私は目覚めてすぐには、なぜそのような夢を見たのか、その言葉の意味がどのようなものなのか、まったく見当もつかなかった。それが二日後ぐらいに、ふとわかった(ような気がした)のである。神仏が夢の中で私に諭しておられたのだ。それは、恐らくこういうことである。
“あなた(私)がブログ記事で書く内容については、本当は読むべき人は誰であれ、心を開いて受け入れる姿勢を持っているのです。だから相手が権力者であれ誰であれ、あまり厳し過ぎる批判をすべきではありません。褒めてあげなさい。褒めてその人を力付けることによってあなたの内なる神性(仏性)の力を活用しなさい。”とおそらくそのような意図で婉曲的に諭されたのだ。
と、思ったのである。もちろん私が勝手にそう解釈しただけのことである。しかし二日ぐらい経たなければわからないような、夢の中の言葉というものは、自己完結的な無意識の一作用と見るにはどこかよく出来すぎているようにも感じられるし、あるいはやはり牽強付会に都合よく解釈しているだけのような気もする。結局のところよくわからないとしか言えない。因みに“諭す”という言葉は、辞書を引いていただければわかるが、「神仏が啓示・警告して気づかせる。」という意味である。こういう体験を通じて宗教的な感受性の強い人は、敬虔な思いに打たれ、深入りしてゆくのかも知れないが、私の場合は必ずしもそうではない。寧ろ反対で、たとえばそのような夢の場合には、それでは日本の神々は既得権益層の守護神なのか、それで夢の中にまで“陰謀”のように現れて私の論述の方向性をコントロールしようとしているのか、などと考えて反逆的になってしまうのである。そのあたりの感覚は、私の記事を初期から通して読んでくれている人には分かっていただけるものと思われる。禅問答にも「仏に遭っては仏を殺し・・・」とある。神秘的なものや不可思議な世界にあまりに深く捉われてしまうと道を誤ってしまうであろう。その時々に立ち現れる絶対的な真理の像を殺してゆかなければ先には進めないのだと思う。但し絶えず謙虚な気持ちに立ち返って、神仏に生かされている感謝の念を忘れてしまえば、人間は見掛けの真理にすら見放されて一個の物へと墜落してしまうであろう。物には物理の法則しか働かないのである。そういう意味では私は、唯物論者ではない。夢の話しから抹香臭い話しになってしまったが、要するに人生は寝ている時にさえ、おまえはどういう人間なのかと問われているような気がしてならないということだ。人生とは夢のようなものである。夢の中でうなされながら自分がどういう人間なのか、思い出そうとしているのだ。