龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

死の国

今年の5月にオープンしたばかりの大阪駅大阪ステーションシティには、週末に何度か見に行ったがそれなりに人込みで賑わっていた。再開発が進められている大阪駅周辺は三越伊勢丹が新たに進出してきたことでこれまで以上に密集した百貨店集積地に生まれ変わった。既存各百貨店は生き残りを賭けて、建て増しによる増床や建て替え工事をしているようである。大阪市北部の大阪駅周辺だけではなく、南部に位置する天王寺駅界隈においても4月末にあべのキューズタウンがオープンし、現在のところ少し落ち着いてきているようであるが、当初3ヶ月ほどは大変な人込みであった。近鉄阿倍野百貨店は、いつ完成するのか知らないが日本一の高さの高層ビルへと建て替え工事が進行中である。そのせいなのか天王寺駅構内までもが現在、改装中で歩き難いことこの上ない。
その上、狭くなっている駅構内スペースで土産物とか、記念スタンプか何か知らないが、くだらない物を歩行場所を占領して売っているのだからいい加減にして欲しいものだ。まあ、私はたまにしか通行しないのだから別にいいのだけれど。とにかく大阪人の習性は、数年前にそごう心斎橋店がリニューアルオープンした時もそうだったが、新しいもの好きで暇つぶしに取り敢えずは“見に”行くのだが、はっきり言って“金”は使わない。・・・見るのは、ただだからな。それが、大阪人だ。比較すれば東京人は、“見栄の文化”に生きている。見栄の文化とは、人様にどのように“見られるか”に絶対的な価値を置き、その“価値のため”にこそ“金を使う”生き方というかモチベーションの集合である。大阪人も一部の金持ちは見栄の文化に生きているが、大多数は見栄に金を使わない。生理的かつ合理的な採算が、金を使う判断基準となっている。わかりやすく言えば、旨いか不味いか、高いか安いか、得か損か、といった二者択一である。他人がどう思おうと関係ないのだ。別にどちらが道徳的に人として正しいかなどと論ずる気はない。しかし大阪人相手に見栄の文化を持ち込んでビジネスの勝負をしても失敗することだけは間違いないであろう、と言っておこう。
さて、大阪人と東京人の気質の違いはどうでもいいのである。そんなことを書くつもりはなかった。大切なのは日本の景気についてどのように見るかということについてである。都心部で戦国時代の合戦の如く再開発競争が進められ、百貨店や大型店舗が激しくしのぎを削っている光景を見れば、ましてそこに一時的にではあれ圧倒的な集客力があれば、外観的には何となく景気が良さそうに見えるであろう。お馬鹿な政治家(もちろん国会議員)は、そういう部分だけ見学して、日本もまだまだ捨てたものではない、数年後が楽しみだなどという感想を持つのかも知れない。
だが現実はそれほど甘いものではない。ここに具体的な数字を示すことにする。日本百貨店協会が公表している百貨店売上げの推移である。この5年間だけの売上げ金額を見ても全国計で、2006年7兆7700億円、2007年7兆7052億円、2008年度7兆3813億円、2009年6兆5841億円、2010年6兆2921億円となっている。2006年から2010年の5年間で売上げが約19%減少している。今年20011年は東北大震災の影響もあって1月から7月までの合計は3兆5000億円で、これは前年2010年の1月から7月までの合計3兆6754億円と比べると4.8%のダウンである。よって2011年の売上げ推計はこのペースで行くと、6兆円を切って5兆9900億円となる。この数字は2006年に比べて23%、金額にして1兆7800億円縮小することになる。一口に1兆7800億円と言っても国内の消費で見るとこれは大変な金額である。言うまでもないことだが5年前の2006年がけっして景気が良かったわけではない。当時は当時で末端の生活実感とすれば、かなり景況感は深刻であったはずである。それが今や、その当時の約4分の3強にまで国内消費が収縮してしまっているのだ。とんでもない収縮率である。また今年が底であるかと言えば決してそのようなことはないであろう。来年、再来年と放って置いても同じペースで収縮し続けるであろう。このような状況下において野田首相は、財政再建のために消費税増税は避けて通れないと明言するのだから、とてもではないが正気の沙汰とは思えない。何を考えているのか、何も考えていないのか。とは言っても、今や日本の景気は、自民党政権時代のばらまき公共工事や中小企業向けの緊急特別融資などの大雑把でざっくりとした目先の対応を施してどうにか持ち直すような状態ではない。目先の御座なりな対応では結局、国の借金を増やすだけで根本的には何も解決しないことがもうわかっているはずではないか。はっきり言うが今の時代には利権に絡め取られて自由に身動きの取れない国政のあり方や、小回りが効かない迅速性の欠如、効率の悪さ、公務員の高コスト体質などが全て重しとなって日本の回復を阻んでいるのだ。本来、日本には良質なモラルと教育水準、また潤沢な個人の預貯金や大企業の内部留保があるのであって、要するに国全体としての潜在能力は高いはずなのである。その日本の潜在能力を殺しているのが、国政と官僚、財界などの利権構造とマスコミが自らの経営環境を守るために日本の変革を妨害しようと続ける大衆操作なのだ。今の状態のままいけば、日本の貧困化と格差、権力の腐敗はますます進んでゆくことであろう。都市の中にスラム化された地域が出来てきて、将来に希望の持てない若者の多くが日がな一日ドラッグに浸っている光景が至る所で見られるようになるであろう。国家の没落は必ず同じ道を通り、同じ光景が見られるということだ。そして日本は確実にその路線を歩んでいるのである。
この流れを何とか食い止めるためには、国政の機能を最小限まで縮小させて、地方分権を強力に推し進めてゆく以外にはないと思われる。行政単位の規模をある程度小さくして権限と財源を付与すれば、日本の潜在能力はきっと活性化してゆくことであろう。日本という国をトップダウンの権力機構としてではなく、市や町、地方の集積としてボトムアップの権力機構として再構築していかなければ、日本全体が“死の国”になってしまうことであろう。そもそも民主党は政権獲得前に確かそのような趣旨の事を訴えていたのではなかったのか。
日本は国土が狭いので数時間もあれば新幹線や飛行機でどこにでも行ける。物理的な距離感は小さいのだが、霞ヶ関や永田町の中央と地方の心理的な距離感はとても大きい。その距離感を大きくさせているのが、つまりどこか他人事のように感じさせている要因が、利権や癒着の構図なのだと思われる。だから軽はずみでお馬鹿な発言をする国会議員が後を絶たないのだし、それは国会議員全体が地方や市民の生活感覚をまるで何も理解できていないことの証左でもある。