龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

議論の効用

民主主義に議論は必要であろうが、議論が民主主義の質を決定するとは私には思えない。民主主義の質を実質的に決めているものが何なのかを追及することが、私にとっての一つのテーマである。だからブログで記事を書いても、誰かの記事を読んでもコメントで意見を戦わせようとは私は考えない。そういう議論が無駄だとは言わないが、議論の枠外にあって我々の意識や思考を誘導しようとする制約そのものを私は見つめようとしているからだ。だから議論の限界や無力さに私は他人よりも敏感なつもりでいる。要するにわかりやすく言えば、私は話し合いでは世の中は良くはならないと考えているのだ。だから私の個人的な追及は、裏返せば、“ファシズムの本質”とは何なのかということでもある。議論の虚しさを私に最も感じさせたTV番組が『朝まで生テレビ』であった。私はあの番組を何度か見ているが、生理的に好きになれないというか、見た後に何とも言えない不快感が残った。だからある時期からまったく見なくなってしまった。今でもやっているのかどうかすら私は知らない。どうして私は自分があの番組を生理的に嫌悪するのか、そして不快感を感じるのか、当初はよくわからなかったが、よく考えてみてわかったことがあった。どうも司会者の田原総一郎氏に私の思考や感性が反発するのである。具体的にどういうところかと言えば、たとえば、田原氏は自らの信念の延長線上で自説に過ぎないものを事実にすり替えて発言することが多いように思われることである。そして自分の信念にそぐわない誰かの主張にはその背景となる権力や権威を徹底して批判するのに、自らの思想的な“正義”を補強するためには恥ずかしげもなく平気でその権力や権威を後ろ盾として援用するように感じられるところにあった。自分と対立する意見の主張者に対して、「あなたの主張が間違っていることは、もう既に証明されていることである。」とか「もうそのような内容の議論は既に決着済みでとうの昔に答えが出ていることではないか。」などの言い草は、得体の知れない漠とした権威の下に相手の感性や思考の根を封じようと為すことで、左翼の連中がよく使う手口である。ゲストの出演者がそういうレベルの発言をするならまだしも司会者がそのような態度であれば、結局、議論の形を取りながら放送を通じて世相をコントロールしようとしているだけのことである。またそういう誘導傾向に無自覚な人間とは、私から見れば内面なきファシズムの陰画にしか過ぎないのである。陰画であるから世相が変って反転すれば、簡単にファシズムの実像に転向するのであろう。
田原総一郎氏は、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんや、有本恵子さんは「外務省も生きていないことがわかっている」などと『朝まで生テレビ』で発言した。自分は真実に通じているのに世俗の大衆は無知蒙昧で何もわかっていないから教えてやっているという言い草である。それが真否は別として、当人が絶対的に信ずるに足る情報源に基づくものであるならともかくも、田原氏の普段からの発言傾向を考えれば、とてもそうとは思えないものである。11月7日発売の韓国誌「週刊朝鮮」で、北朝鮮平壌市民の個人情報データの中に横田めぐみさんらしき人物が2005年時点で存在していたことが報じられた。確定情報ではないので真偽の程はわからないが、少なくとも「生きていないことはわかっている。」などと既成事実化することが許された状況でないことは証明されたのではないのか。これは田原総一郎氏一人の問題であるというよりも、マスコミ全体の問題である。マスコミは自分だけが正義で真実であると思っている。そうすると情報の流し方や隠蔽で社会操作したり、微細な罪で誰かを破滅に追いやれる全能感が自分たちの特権的使命だと勘違いするようになる。そういう思い上がりがマスコミの悪の本質である。