龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

尤もらしいだけの政治の言葉

6月10日の日曜日は、息子と元妻の3人で心斎橋にあるフランス料理の店へランチを食べに行っていた。1時に予約を取ってあったので、その時刻に店の前で待ち合わせをしていたのだが、息子と元妻は7~8分遅れてやって来た。先に息子がクリスタ長堀の地下街から階段を駆け上がってきて、その数分後に元妻がエレベーターから出てきた時に突然、心斎橋の上空に数機のヘリコプターが舞い始めたので、一体、何事かとしばしの間、3人で空を見上げていたのであった。その店は、心斎橋でも四ツ橋駅に近い西寄りの南船場にあったので、通り魔事件があった東心斎橋から少し距離は離れているのだが、それでも後で地図で測って見ると事件現場から直線距離にして550メートルであった。都心のビル街の550メートル離れた地点で異変が起きていてもまったくわからないものである。どこかしら不吉に聞こえてくるヘリコプターのプロペラ音以外は、パトカーや救急車のサイレン音もまったく聞こえてこなかった。現場からほんの数百メートル離れた地上世界は日常性の一欠けらも損なわれておらず、平和そのものであったのだ。まさかあのような凄惨な事件が起こっていたとは思いも寄らなかった。食事をしてGAPで子供の服を見て、夕方、家に帰ってからパソコンを見て初めて気付いた次第であった。今から思えば息子もいたことであるし、本当に現場に遭遇しなくて良かったという思いである。直接、現場を目撃していないとはいえ、このような殺人事件とニアミス状態になると自分が悪魔に狙われていたのではないかとも思えてくる。その日は、たまたま南船場の店を予約していたものの、それが何かの事情で東心斎橋界隈の店になっていたかも知れなかった。そうであれば事件の発生時刻が午後1時であったので、ちょうど1時に待ち合わせをしていた私が数分遅れてやって来る息子と元妻を待ち、ぼんやり文庫本でも読みながら路上に立っている所を通り魔に刺されていた可能性もある。あるいは息子や元妻が通り魔のターゲットになっていたかも知れない。そのように考えると本当に恐ろしいことだ。通り魔事件とは、誰かに恨みを買ったり、何らかのトラブルに巻き込まれて被るといった理屈が通った災難ではない。単にその時刻に、その場所に偶然、居合わせていたというその事実だけで突如として見舞われる極めて理不尽かつ不条理な不幸だ。よって通り魔事件とは被害者の家族にとっては哲学的なほど深遠な不幸の問題に否応無く向き合わされることでもある。なぜなら人間は、この世に生きている限り、いついかなる時も必ずどこかの空間に位置して肉体的に存在しなければならないからである。それが生きているということの宿命であり、また定義であるとも言える。だから、いつ、どこにいたかという純粋にただそれだけの偶然性が誰かに殺される原因になってはいけないということである。そういう殺人は救われようがない。それは犯罪という以上に人間存在の根底に対する冒涜である。誰もが対象になり得るという点において、あまりにも悪魔的な所業である。私は時空の座標軸で見れば、日曜日の午後1時という時間はぴったりと合致していたのだが、空間の位置が500メートルほどずれていた。悪魔から見れば、ちょっとした計算間違いということになるのであろうが、我々人間サイドからすればこのような悲劇の原因を悪魔の仕業や計算だけの問題で済ませる訳にはいかないことは当然である。社会学的にきちんと検証しなければならないということだ。刑務所から出てきたばかりの男が仕事も住む所もなくて、自暴自棄になり死刑になりたかったから人を殺したということである。確かに死にたいのであれば自己完結的に一人だけで勝手に死んでくれ、という話になって当然であるし、心情的には理解も同意も出来るコメントであるが、政治がそのようなことを言ったところで現実的には何の解決にもならない。毎年、何人かは知らないが、一定数の人間が刑期を終えて刑務所から我々の住むこの娑婆の世界に吐き出されてくるのである。そのような前科のある人間であっても、社会の中で更生してゆくためには当然に住む所も必要であるし、定職に付かなければならない。しかし現状の社会状況においては、犯罪とはまったく無縁の善良で真面目な人間であっても中々職が見つからないほど不景気であるのに、刑務所帰りの人間に自活できる仕事を見つけることは、ほぼ不可能であろう。そうするとこの世の居場所が刑務所の中だけしかないということになり、再び、犯罪に手を染めることはひとつの必然である。刑務所の中にも戻りたくないとなれば死ぬしかない訳で、一人で淋しく自殺してくれれば幸いだが、今回の事件のように自暴自棄になって通り魔になるような人間が現れることは不思議でも何でもない。そのように考えると、結局、国内の不景気に原因があるわけで、それは政治の責任なのである。つまり政治に関わる人間が、どのような凶悪な犯罪者に対してであっても自らの役割、責任を棚に上げて、一人で勝手に死ねなどとは言ってはいけないということだ。犯罪者を裁くのは司法の役割であって、政治家の仕事は犯罪者が再犯しないような社会を作るためには今、何をなすべきかを先ず第一に考えることではないのか。日本の政治が駄目なのは、とことん生の現実に立脚することを放棄して、外面的に尤もらしい言葉の中に逃げようとするところにある。そのような言葉には、何の具体性もなければ、現実を変える力を持ち得ないのである。単に誰もが否定し得ない共通のコンセンサスの響きがあるだけだ。たとえば野田総理や、自民党の政治家は、“消費税の増税と景気回復を同時進行で進めていかなければならない”などと、いかにも尤もらしいことを言う。しかし消費税を5%増税すれば、その5%増税分確実に国内景気が悪くなる方向にベクトルとして作用することは明白である。よって増税して尚且つ景気回復させるということであれば、同時進行云々という問題ではなくて、そのマイナスのベクトルを打ち消す程に、強力にプラスの方向に働く具体的な政策が示されないということである。これは中学生でも分かる簡単な理屈だ。ところがその具体案は何一つとして語られていない。ただ、財政状況が逼迫しているから消費税は待った無しで引き上げる必要性がある、景気回復も同時にやっていく、ということであれば何一つとして語れていないのと同じなのである。何一つ語れていないということは、何一つ考えられていないということであり、これでは国民の理解など得られる訳がないのである。そうでないということであれば、消費税を増税して尚且つ、景気回復するプロセスを詳細に国民に対して説明して見ろよ、と言いたい。常識的に考えれば、消費税増税は景気が過熱気味であり物価はどんどん上昇し、そのまま放っておけばバブルになってはじける可能性が高いという段階で市場を沈静化させる目的で施されれば、税収増ともなる有効な政策である。現在の消費低迷、デフレの下で消費税を上げて、そのあとの展開が語れていないのに、口先だけで国民のためだとか国のためなどと立派なことを口にしないでいただきたい。口にするだけの資格も、能力もないということなのだから。日本は不景気だとは言え、世界第3位の経済規模を誇っている国である。犯罪行為は決して許されることではないが、日本は刑務所を出所した人間であってさえ、きちんと更生して、自活できる環境が用意されていなければおかしいのである。何がおかしいかと言えば、国民のモラルや規範意識がおかしいのではなく、政治の有り方が根本的に間違っているということである。わかったか。わからないだろうが。