龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

犯罪抑止と人権意識

元少年Aが書いた『絶歌』は読んでいないが、開設したホームページを瞥見した。何と言うべきか、とてもショッキングである。そこには作り物ではない、本物のヤバさが異界の異形のように立ち現れている。文章を詳細に読んではいないので(ちょっとそういう気にはなれない)はっきりと断言はできないが、これは事件への反省を云々できるレベルではないように感じられる。当人が制作したグラフィックを見てもわかるが、未だに明らかに精神を病んでいるようである。ところが元々の知的レベルは低くはない(というよりも平均以上である)ので、当人はどうも自分自身を、生まれついての表現者で特別な人間であると思い込んでいるような節もある。一概には言えないことであろうが、殺人者の内面とはこれほどまでに一般人と隔絶したものであろうか。才能とは隔絶の果てに輝く星ではない。埋没からの脱却であったり、凡庸からの跳躍が才能というものの正体だと私は思うのだが、とにかくも元少年Aは自らの特質を病理としてではなく一角の表現者として自己認識しているようである。
社会の良識派は簡単に更生とか矯正などと言うが、現実はそんなに甘いものではないものかも知れない。気質的に或いは運命的に、殺人者として生まれつくということはないと私は思うのだが、それでも殺人という逸脱行為に一般人よりも遥かに距離感の近い精神構造なり脳の器質上の問題というものがあるのではないか。刑事上の責任能力とは別に、そういう観点から人間を差別したり区別するのではなく、重大な犯罪を引き起こしやすい不可変の傾向性とか病理というものを把握して、社会的に対処する必要性はあると思う。そうでなければ社会に必ず一定数は存在する危険人物の突発的な犯行から身を守ることは難しいのではないか。これまでの日本の主な犯罪史を顧みても、幼女殺しの宮崎勤であるとか、大教大付属池田小学校を襲撃した宅間守光市母子殺害事件の福田孝行、それからつい先日の寝屋川市中1殺人事件の山田浩二にしてもそうだが、どれも一括りにカテゴライズできるものではないが、一般的な理解が及ばないところで為された殺人事件であるということと何の罪もない小さな子供が犠牲になっているという点では共通しているのである。元少年Aの事件は、犯行時の犯人の年齢が14歳であったことから少年法で裁かれ、死刑とはならずに今は出所して本を出版したり、ホームページで表現をする自由が与えられているが、犯行内容の残虐性や不可解さは同じである。もちろん14歳の犯行に死刑を認めることは出来ないし、死刑制度そのものに私は否定的であるが、人権意識とか既成の社会道徳ばかりが前面に出て、凶悪犯罪を未然に防ぐ力を持ち得ない社会体制や社会意識に私は反対である。人間は神の前にも、法の下でも平等ではあるが、それでも同等に扱われていいということにはならないと思う。暴力衝動や犯罪性向の強い人間に対しては、犯罪や問題を起こしてからではなく、過去の犯罪履歴から将来の潜在的な危険性を予測して対処する必要性もあると考えられる。刑務所生活だけでは現実的に見ても更生、矯正がなされていないケースが非常に多い。元少年Aに再犯の危険性があるとは言わないが、一般論として言えば、明らかに犯罪衝動、傾向の高い危険人物に対するリストアップと監視体制は、テロ対策だけでなく通常の犯罪防止においても必要であると考えられる。そうは言ってももちろん警察が24時間体制で監視することなど不可能である。それではどうすればよいのか。私は根本的に犯罪防止の考え方を変えなければならないと思う。何よりも大切なのは刑罰でも更生プログラムでもなく、「市民の目」だと思う。無力な小さな子供を対象にする危険性のある人物にたいしては、名前や住所、勤務先等の情報を少なくともその市町村の住民に対しては公開され共有されるべきである。もちろん当該人物のプラバシーは大きく制限されることとなるが、その代わり前歴犯行についての刑罰、刑期を大幅に軽くしてやればよいのだ。権力側からすれば認めがたい論理となるのかも知れないが、刑罰では完全には更正されないものとの前提で、その穴埋めに市民の目を活用するのである。言わば、娑婆の生活が犯罪者や前科者からすれば緩やかなる刑務所となるのである。そうなれば当然、人権というものに対する考え方は大きく転換することとなり反対する人も多いであろうが、それでもそれによって死刑から免れたり、刑期が半減するのであればそちらを希望する受刑者の方が多いのではなかろうか。そもそも日本の刑務所や服役の制度は明治、大正、昭和初期の時代からほとんど変化していないもので旧態依然としていてとても古臭いものである。それは日本という国が戦争前後から、本質的な部分では何一つとして進歩していないということの一つの証左である。