龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本のサッカーと政治の共通点

オリンピック、サッカー男子の日韓戦を見ていて思ったのだが、日本のサッカーは行儀が良過ぎる。行儀が良いというのは、マナーが良いという意味ではない。迫力に欠けると言うのか、相手ディフェンスの均衡を打ち崩すことが出来ないサッカーだ。どういうことかと言えば、防御は組織力でしか対応できないが、攻撃は相手側防御の陣形を前にして、組織で対峙しても膠着するだけで隙は生まれてこない。結果的にバックパスをしたりして、攻めあぐねるということにしかならない。そして相手側ディフェンスの乱れというか、隙が出来る瞬間を待っているだけのサッカーになってしまっている。まあ、これは日韓戦の特徴なのかも知れないが、韓国は集中力でディフェンスの統一を乱さないようにするし、日本はその統一の乱れをうかがっている間に90分が過ぎてしまう。
何が言いたいのかと言えば、単に待っているだけでは隙は、つまりチャンスは生まれてこないということだ。組織ではなく個人の能力で相手陣形をかき回すことができれば、シュートにまでいかなくてもどこかにスペースは生まれてくる。得点の可能性を作るとはそういうことだと思う。そういう発想というか戦術が見えてこない。一方で韓国は鉄壁の守備隊形で守りを固めながら、一本のロングパスだけで手薄になっている日本側に攻め入り、僅かなチャンスを個人技で突破して確実に得点に結び付けている。いつもの日韓戦における日本の負けパターンである。日本の行儀のよい組織サッカーとは私の眼には、官僚サッカーに映る。組織の統制、秩序が保たれていることが一義的に重要なのであって、守りにおいてはそれで良いのだが、攻撃面においてまでも組織の論理が前面に出過ぎていて、個人が相手の統制、秩序を破壊するという思考、発想が貧困というのか無いのだと思う。単に得点のチャンスを行儀よく待っているだけの消極的なサッカーだ。韓国は、最初から日本の守りの統制を切り崩すにはどうすればよいのかという激しい攻撃性が個人のプレイによく現れている。そのためにはイエローカードのリスクにも果敢に踏み込む。これでは少なくとも日韓戦に限って言えば、日本は何度戦っても韓国には勝てないであろう。サッカーは得点を入れなければ勝てないスポーツなのだから、より攻撃的な精神と戦術が土台となっていて、その攻撃性と守備とのバランスがとれているチームの方が必ず勝つようになっているのである。日本の官僚サッカーでは、韓国に対して10回に1回ぐらいの割で幸運に恵まれて勝てる程度であろう。私は官僚サッカーと呼ぶが、確かにサッカーの日韓戦を見ていると日本の政治風土が映し出されているように見えるのである。統制と秩序、調和を重んずるプラス面が、攻撃性、つまり日本という国で見れば生産性や将来性への積極的な戦術の欠如と相殺されて全体的に見れば明らかにマイナスに収支されるということだ。つまりサッカーは負けるし、日本という国も凋落せざるを得ないということだ。今回の日韓戦の直前に韓国の大統領が竹島に上陸した。サッカーの日程に合わせたというよりも、明らかに日本政治の弱体化、ラインの乱れを見てチャンスとばかりに攻め上がってきているのである。ロングパス一本と個人技で突破し得点を狙うサッカーとまるで同じである。そうであるのに日本の森防衛大臣は、韓国の内政上の問題などと寝惚けたことを言う。この発言も結局は、日本国内の統制と諸外国との調和を一義的に重要視する官僚主義の弊害であり、現実をありのままに見ようとしていないのである。目を背けているだけだ。だからといって、森本氏の辞任を自民党が要求しても何度も繰り返すように、それは茶番でしかないのである。日本政治の構造的な問題を個人の失言にすり替えたところで、日本は何一つ変わり得ないということだ。構造の問題は内側から作り替えることは不可能だ。一旦、破壊して一から作り直す方が早いであろう。民主党自民党を次の選挙で壊滅させるべきだと、私が主張するのはそういうことである。民主党自民党がなくなって、日本の官僚主義が改まれば日本のサッカーが韓国に負けることもなくなるかも知れない。