龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

死刑制度と人権意識

死刑制度の有無と、その国の人権意識は相関関係にあると私は思う。言うまでもなく、日本には死刑制度があり、執行もされている。日本は戦後の平和思想によって覆い隠されている部分が大きいことと、社会保障もそれなりに整備されていることから、人権意識も高いように考えられている錯覚があるようだが、実際には死刑制度が象徴するように、世界的に見ても決して高くはないのではないかと私は考える。日本という国家の人権意識の低さは、いろいろな所で垣間見られるものである。先ず人権という概念は、「人間が人間として生まれながらに有している権利」であって、その考えは世界共通に普遍的に守られなければならないものであり、その国固有の解釈に限定されたり、閉ざされる性質のものでは有り得ないということである。つまり人権意識の低い国家に対しては、絶えず高めてゆくように他国が働きかけていかなければならない役割があるということであり、それを政治的な内政干渉と言うには馴染まないものである。ところが日本は他国からの内政干渉は簡単に許す割には、中国の人権問題については、内政干渉をするべきではないとの立場から圧力をかけるどころか、まったく批判の言葉さえ発し得ない有様である。これは外交の弱さによるものではなく、本質的には日本という国の人権意識の低さが現れているものであると見れる。欧米諸国は自国の国益も当然、重視はするが、それ以前に人間としての価値を守るという共通の理念がある。その人間重視の理念に対立する概念が、強圧的な統治で揺るぎない国家を維持してゆくという政治の価値観なのである。死刑制度は当然、後者に属する価値観によるものである。つまり日本の政治の正体とは、言ってみれば、人権よりも統治に偏重した性質のものであるということであり、そういう意味では、程度の差こそ甚だ大きいが、日本政治は根本的には北朝鮮や中国と同類であると看做され得るものである。民主主義と非民主主義の区分だけで国家の違いが説明できるものではなく、そこに人権政治と統治政治の対立軸も加味して判断されるべきである。日本は民主主義の統治政治であり、中国や北朝鮮は非民主主義の統治政治であり、人権が軽視されているという点においてはどちらも同じなのである。日本国内においてホームレスが多く存在したり、貧困家庭で餓死者が出たりすることや、離婚後の共同親権制度が認められていないことなども、日本という国が人権重視に対立する統治社会であることが根本的な要因であると考えられるものである。今朝の朝日新聞にも掲載されていたが、覚せい剤の密輸事件が、日本の裁判員裁判において近年では無罪判決が続々と出ている。恋愛感情や無防備な無知を利用されて覚せい剤の運び屋に仕立てられているケースが実際に多く存在するということである。しかし運良く日本国内で発覚して逮捕されれば、無罪になる可能性もあるが、中国国内で捕まればそういう訳にもいかない。所持していた量によっては形式的な一審の裁判だけで死刑に処せられる可能性が高い。日本の政治や外務省は、そのような冤罪発生のリスクに対して何ら具体的に対処する力を持っていないにも関わらず、日中の戦略的な互恵関係が大切だなどとして旅行や経済交流を活性化させる発言しかしない。それは結局は、日本は中国と同じように人命軽視の強圧、統治政治に属していることを国際世論に向けて高らかに宣言しているようなものでしかないのだ。畢竟すれば、それは国民の命よりも金儲けの方が大事だという価値観から派生する国体そのものであって、人権という概念は国家を実態以上に立派に見せしめるためのまがい物の装飾品でしかないということだ。そして自民党政治とは、そのような日本の統治そのものなのであるが、今や自民党二世議員ばかりになってしまって、総理も含め、自民党議員自体が自民党政治の本質をよく理解できていないのではないかと思えるところに、日本という国の深刻さが伏在しているように考えられるものである。だからと言って政権交代すれば、日本が少しでもよくなるのではないかという希望は、夢の中で見る夢のように現実からかけ離れた幻想でしかないことを、先の民主党政権が立派に証明した通りであり、それは今後とも未来永劫に及んで変わることのない真理であると言えよう。良くも悪くも日本には自民党政治しかないのである。その旧来の自民党政治をそのまま存続させてゆくか、変えていくかの二つの選択肢しかないのだ。我々国民は、見せかけの政治的な対立軸によって日本が変わってゆくのではないかという幻想を先ず、綺麗さっぱりと捨て去る必要性があるということだ。