龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

アレフの社会学

12月1日の読売新聞夕刊に、オウム真理教の構成員が増加傾向にあり、教団資産が約6億5000万円に膨らんでいるとの記事が掲載された。オウム真理教から名称を改称して存続、活動している主流派のアレフは現在、拡大傾向にあり、教祖からの決別をアピールしている上祐史浩氏が代表を努める「ひかりの輪」とともに、依然として両団体とも松本智津夫死刑囚の影響下にあり、社会的な危険性が消滅されていないとして、公安調査庁は団体規制法の観察処分を、期限後3年間の更新をする請求を公安審査委員会に提出したとのことである。
アレフの構成員が現在、拡大している現状について、疑問に感じる人も多いであろう。新たに入会する人たちも1995年に引き起こされたサリンテロや、1989年の坂本弁護士一家殺害事件の事実は知っているはずである。そのような危険な団体にどうして多くの人(3年前の更新時よりも国内では約150人増えているとのことである)が、惹きつけられるのであろうか。常識的には首を傾げて当然である。しかし私には何となくわかるような気がする。わかるという意味は、アレフに現在、新規入会する人間の気持ちだけでなく、観察処分の延長更新を請求している公安調査庁の意図もである。アレフについては私は特に研究している訳でもないので、詳しくは知らないという以上に実態については、ほとんど何も知らないが、教義がどうのこうのという問題ではなくて組織そのものが日本社会のタブーとされている危険な真相とか本質に触れている部分は確かにあるのだと思う。それは旧オウムの一連の事件の経緯や実情を知っている信者が、相当数アレフに残っていることとも関係していることであろうと思われる。旧来のオウムや現在のアレフに惹きつけられている人々は、健康問題とか様々な個人的な悩みもあるであろうが、生きる意味というものを切実に求めているところがある。しかし日本社会は政治だけでなく報道であるとか既存宗教や文学なども含めて、まやかしの偽善、欺瞞ばかりであり本当の答えに辿り着くというよりも、引き離されるような一つの大きなシステムであると言える。生きるという行為の意味は、普遍的に社会性の中に見出されるものである。つまり社会の基盤がインチキであれば、どうしようもなく個の生の意味は薄らいでいくものである。もちろん日本は法治国家であるから犯罪者が罰せられたり、その組織が監視されることは当然であり、決して肯定されるべき筋合いのものではないが、それとこれとは別次元の問題である。それに我々の正統的社会というものも突き詰めれば、いや突き詰めるまでもなく、どこまで道徳的に形成されているかどうかわからないところがある。むしろ道徳などという言葉など全く似つかわしくないほどに平然と残虐で悪魔的な謀略が看過されているか、看過どころか日本政府が加担している可能性すらあるものである。何を信じようと信じまいとその人の自由であるが、世界は表面的な常識では到底、信じられないようなレベルで動いているものである。言わば「陰謀論」ということであるが、オウムという組織はある意味では、世界の真相と真実(陰謀)に真摯に向き合っていたのだと思われる。だがそれだけならまだしも、自らが陰謀の主体者となろうとする犯罪への道を突き進んでしまった。これはオウムという組織の性質が、欺瞞的な社会と妥協したり調和したりし得るものではなかったゆえに内在的な必然性があったと見れるものかも知れない。ならばオウムとは日本というインチキ性に対して相対的に正義の要素があったのかと言われれば、そう簡単にはい、そうですと言えるものでもない。そもそも正義とは何なのかと問われれば、一定レベルの知性がある人間なら沈黙せざるを得ないものであることを了解しているものであろう。オウムは犯罪組織であったが、オウムが敵対視した社会や国家はオウム以上に邪悪である可能性が高いのだ。70年前の戦争のことを言っているのではない。正に今、現在のことである。オウムの犯罪が発覚してマスコミ報道がオウムバッシングで溢れていた時に、当時のオウムの広報宣伝部長という肩書きの京大出のお坊ちゃんのような顔をした信者が「どうして人が人を殺してはいけないのでしょうか。」と真面目に問いかけていたインタビューの場面が印象的であった。世間的には何を当たり前のことを言っているんだということになるのであろうが、世界の真相を知ってしまった人間であれば確かにそのような素朴な疑問を抱いてしまうと思うのである。人間の歴史とは、確かに連綿と正義の名の下に人が人を殺害し続けてきた経過であるとも言える。今の日本ではまやかしの正義ですら説明できない非人道的で残虐な謀略が実践されている可能性がある。少なくとも日本には正義などかけらも存在しないのだ。単に痴漢などの微罪を論って、正義を装っているだけのことである。そしてその認識の地点から松本智津夫のように無謀にも自らが世界の統率者になろうとするか、私のように一人で深く絶望するだけかという二極に分かれるのであろう。陰謀を前にすると中庸という状態は有り得ない。中庸とは静かに洗脳を受け入れるということでしかない。オウムやアレフの修行による超人願望というものも私は日本の政治が独立し得ていない脆弱さと深く関連しているように思えるのだけどね。どうだろうか。とにかくアレフは(あるいは上祐氏の「光の輪」も)、知ってはいけないことを知ってしまっている存在なのである。公安の言う危険性の本当の意味は、そういうところにあるのであろうと思う。危険な真実や真相が、社会に拡散しないよう無言の圧力をかけるために公安が目を光れせて、いつまでも監視下に置いておこうとしているのだ。そして公安の背後にいる勢力とは、言わずもがなであるがアメリカである。そういうことである。また話しの内容が我ながら恐ろしくなってきたので、取り敢えずここまでにする。小出しにするわけではないが、日本社会全体の意識に合わせて少しずつ述べてゆくことにする。