龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

非業の死について

非業の死とは、前世の業によらずに思いもよらない現世の災難によって死ぬという意味である。飛行機の墜落で死ぬようなことは、非業の死の典型であると言えよう。病気や事故などによる死や、人に恨まれて殺されるような場合でも、それが前世の悪業による報いであるならば、まあ自業自得による広義の自己責任と見れなくもない。しかしそうではなくて、悪業も現世の罪も関係なくたまたま乗ることとなった飛行機が墜落するような不慮の災難による非業の死は、人生の根底にある不条理や無慈悲さを象徴しているように思え、恐ろしくてならない。人それぞれ考え方は様々であろうが、人間とはたまたまあっけなく死んでしまうものである。全てが運命づけられたり、意味付けられている訳ではない。今回のドイツ航空機の墜落に関しても、乗客から見ればたまたま乗り合わせることとなった副操縦士が、うつ病で心を患っていたことから巻き添えになって、命を失うこととなってしまった。運が悪かったと言えばそれまでだが、それ以上の何の意味も必然もない。登校中の子供たちの列に車が突っ込んで、死亡事故が起こるのも同じである。たまたまその道を、その時間帯に歩いていただけのことである。そういうことでいとも簡単に人が死んでしまう「非業の死」というものを我々はどのように受け止め、消化すればよいのであろうか。特に飛行機の墜落などは死ぬ人間にとっては、最悪の死に方である。何らかのトラブルに気付いて機体が降下し始めても、成す術がない。僅か10分や20分ほどの間に絶対的な死というものを受け入れる覚悟を固めなければならないが、そのようなことが出来るはずはなく、ただひたすら恐怖とパニックの中で死の瞬間を待つだけである。その空間における、その時間帯ほど神も仏もないという表現が適切な状況は、この地上世界に他には有り得ないであろう。死んでしまえば、死の向こう側は皆同じなのかも知れないが、家族に看取られて安らかに死にゆくのとはあまりにも死の質が違い過ぎる。そのような死に方をして成仏できるのであろうかなどと余計な心配をしていると、私の方がパニックになったり、欝になりそうである。そういうことなので、こういう内容を語りながらこのようなことを言うのも何だが、私は自らの精神衛生を保つためにも最近ではあまり世の中の悲惨な状況について深く考えたり、心が囚われないように心掛けている。自分さえ良ければ良いとまでは言わないが、自分以外の世界の悲惨な事件に心を痛める余り、自分の心が病んでいくのは馬鹿げている。私は世界の一部であるが、私以外のことは私の領分ではないのである。明日は我が身とならないように、自分自身の人生をしっかりと歩むしかないのだ。気候も良くなってきているので散歩がてらに桜でも見ながら、死については人生の調味料程度に、ほんの少しだけ考えることにしよう。