龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

香山リカ的精神性について

面白い記事を読んだ。面白いなどと言ってはいけないのかも知れないが、興味深い内容であることには変わりない。私は知らなかったが、1月10日ということだからつい最近であるが、先の日韓慰安婦合意を糾弾するデモ行進が東京の銀座から日比谷公園にかけて行われた。大変な騒ぎである。まず最初にその時の模様を映したユーチューブ動画を見ていただきたい。
動画のタイトルにもある通り、そのデモ行進に対抗して精神科医香山リカさんが、中指を立てて鬼のような形相で狂ったように喚き散らしている姿が映し出されている。そしてその香山リカさんの狂態を「本質からずれる社会運動―香山リカの奇行」として社会学的な視点から論じた記事が、以下である。
是非、読んでいただきたい。そして私のブログ記事を読んでくださっている方には、石井孝明さんのその記事内容と合わせて、何か感ずるところを持っていただければ幸いである。基本的にはその記事に書かれていることは、普段から私が日本の世相に関して感じていることとまったく同感なのである。香山リカ(以下敬称略)という文化人というか知識人について、私はさほど多くの知識を持っているものでもないし、関心があるわけでもないので、踏み込んだ批判や論評をすることはできない。よって個人攻撃する意図はない。しかし石井孝明さんが述べている「本質からずれる社会運動」との関連においては、私も思う所は多々ある。これまでの私の香山リカに対する印象は、メディアに登場している時の印象が強いので表層的なものではあろうが、左翼文化人の旗手として非常にクールな佇まいであり、精神科医であるから当然なのかも知れないが、世相を見る目が分析的であり、感情に流されない意志が常に感じられる顔の表情というか、黒縁の眼鏡が社会(権力)を心のどこかで拒絶すると同時に挑発しているのではないかと思えるような気配が感じられた。しかし本屋に行けば、香山リカの本は売り場にたくさん並べられてはあるのだが、手にとってパラパラ読んでみれば、どれもこれも薄っぺらな内容に思えて、買って家でじっくりと読み込もうという気にはなれないのである。表面的には言っていることは、尤もなのだけれど、それでは最終的にどこかに辿り着いたり、行き着こうとする主張をしているのかと言えばそうではなくて、何て言うか、一言で言い表せば、「堂々巡り」の思想なのである。どこにも辿りつかないし、何も解決しないし、何の結実もないのだけれど、ツアーコンダクターのように先頭で旗を持って世人を誘導し、読者や視聴者や患者を自分の堂々巡りの迷宮に引き込もうとする企みを包み隠している。そしてその堂々巡りこそが実は日本の平和と民主主義の正体であり、一義的に守り抜かなければならない価値であると考えているのではないかという私の個人的な印象である。そこから敷衍して考えるに、左翼とは、いや現在の日本の左翼の本質は、香山リカ的な堂々巡りにこそあるのではないのか。朝日新聞の論調もTBSの報道番組の解説も皆、同じである。実は、右翼とか左翼とか、世界(左翼にとっては日本国内が世界の全てであるが)が、どのような方向に向かって進んでいるのかと言う事は、左翼にとっては全く関係なくて、堂々巡りの論題と対立構造こそが守り抜かなければならない永遠の出発点であると同時にゴールであって、その先というかその周回から外れた地点には何もないのである。周回から外れれば、或いは意図せずに外されてしまえば、そこは虚無であり、左翼思想者にとっては狂気に満ちた、自分を保ち得ない世界となるのである。
つまり冒頭に紹介した動画の中の香山リカの狂乱とは、そういうことではないのかということだ。日韓慰安婦合意への反対デモ活動は、石井孝明さんの記事にもある通り、差別とは何の関係もない。しかし香山リカは「レイシスト、帰れ」のプラカードを手に持って、中指を立てながら喚き散らし、憎しみを発散させているように見える。香山リカにとっては差別対反差別、レイシスト対博愛主義の対立構造こそが重要なのであって、そうでないものまでもその円環に引き込もうとする。石井孝明さんが言う通り、「巨悪」はほかにあるのに決してその巨悪を見ようとはしない。なぜなら巨悪の存在を措定してしまうと、彼女が大切に守ろうとしている堂々巡りの円環が崩れてしまうからだ。そういう意味では香山リカにとっては、本当は私や石井孝明さんのような人間こそが本質的には敵なのであって、在特会のような連中は敵なのではなく、むしろ同じ円環(舞台)の中の同志とでもいうか、自らの存在意義を輝かせ、賦活せしめてくれる対象であると言えるのである。だから本能的にそのような対象を追い求め続けて、その円環構造に引き込もうとする。だが時代の世相が微妙に変わってきて私が常日頃からのべているような視点の精神性、つまり堂々巡りの地上的な円環ではなく、時代や世界を俯瞰して、その超越的な認識の中から既存の価値観やイデオロギーを脱して、個が今を生きることの新しい意味を問い直し、全体的な救済をもとめようとする考えがでてくると、香山リカ的なる精神は、大学の教授とか精神科医であるとか新聞の論説委員なる社会的な肩書があっても根底のところで居場所を喪失して狂わずにはいられないような心理状態に自然と追い込まれていくのではなかろうか。だから私のような存在こそ香山リカ的精神性にとっては、本当の意味での敵なのである。そこにあるものは思想ではなくて、一つの精神構造であり病理であるとも見れる。それは香山リカという一個人のものではなく、朝日新聞の論調でもなく、日本と言う国家のそして民主主義全体の病理であるのだと私は考えている。だからその円環的な病理を、仏教的に言うならカルマを、積極的に打ち壊していかなければならないとも思っている。