龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

マスコミの正義と日本の秩序

それでは何がマスコミの精神性を形成しているかと考えるに、小難しい理屈は抜きにして卑近な解釈を示せば、芸能人が例えば不倫や何かの不祥事が発覚したとか、今回のように名前と顔の売れた息子が罪を犯した時の記者会見の場で、決まったように、「お騒がせして申し訳ありません」、「多大なご迷惑をお掛けしたことをお詫びします。」「皆様にご心配お掛けしておりますことを深く反省しております」などの言葉で頭を下げながら謝罪する光景が慣例となっているが、あれは一体「誰に対して」謝っているのかということである。あの対象がよくわからない謝罪は止めた方がよいと思う。なぜかと言えば、問題を起こした芸能人は、全てのファンや国民に向けて謝っているつもりなのであろうが、その会見に集まっている記者は、何度もそういう現場に立ち会い、その都度目の前で頭を下げられている内に、取材記者に過ぎない自分自身に向けて謝られているように思えてきて、あたかも自分が社会的、道徳的に偉くなったかのように錯覚してしまうからである。だからこそ一般的な感覚では不躾にしか思われない質問でも、平然とできるのである。そしてその延長上で、マスコミは報道者としての本来の本分よりも、道徳や正義観念の国民に対する統率者、或いは管理者としての偏向性を強めてゆくこととなる。また大手マスコミは記者クラブの加盟によって特権的に一次情報を寡占しているという優越意識があり、それらが相俟ってマスコミ特有の精神性が生み出されることになる。その特質は、マスコミが取り扱い、操作する情報の情報性が大衆意識の出発点であり、またプロトタイプであるとする思い込みのようなものに囚われていて、自分たちの歪みの源泉であるとか国民意識との微妙な差異というものが、あまり見えていないのではないかと考えられる。そこにあるのは恐らくは組織内部の強烈な洗脳と、大衆に対する捻じれた優越意識だけなのである。そこに右も左も何の違いはない。右も左も小さな箱庭に巧妙に配置され、飾られた置物であって心ではない。その一方で他国の日本に対する外圧には、手負いのリスの如く敏感かつ臆病であり、マスコミ独自の基準で国民に知らしめる情報と、隠ぺいする情報を手前勝手に取捨選択することには熱心で、報道機関としての責務を半ば放棄しているようにすら感じられる次第である。そういうことの全体像が日本の民主主義であり、政治と情報が融合した日本の秩序なのである。そういう日本の全体像が少しでも見えてくれば、なぜ日本のマスコミが芸能人の不倫であるとか、不祥事にこれほどまでに執心するのかということもご理解いただけるのではなかろうか。日本においてはどうでもよいことが最も大事であり、最も大事なことはどうでもよいように放置されている。国民の苦悩は、この転倒の構造から生み出されているのである。