龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本人の生きる意味

無意味、無駄、無価値の三無が、日本の国政政治の実態である。地方政治はまだ市民との距離感が近くて監視の目がそれなりに働いていて、議員の権限や自由にできる金も国政に比べれば限定されているので、マシではあるであろうが(それでも酷い議員も多いが)、国会議員は本当にむちゃくちゃである。おそらくは勉強など何一つとしてしていないであろうし、煩悩の趣くままに遊んでいるだけである。それは昨今の不倫騒動の多さを見てもわかる通りである。政治とは名ばかりで、党内で乱交パーティーでも催しているのではないかと疑われるほどである。その内にそのような動画が流出するのではなかろうか。見たくもないが。今の日本は歴史的に見るとローマ帝国の末期によく似た状態になってきているようにも見える。一部の権力者や貴族階級の者が贅を極めるかのような享楽的な生活に夢中になり、姦淫や近親相姦などの性的退廃は蔓延し、日々美食と饗宴に耽るような世相のなかで、民衆の生活は搾取を強められて困窮の果てに追い詰められていったものである。そのような堕落と退廃の中でローマ帝国は滅亡してゆくこととなった。時代が違うので単純には比較できないが、本質的な部分では現在の日本と重なっているところが大きいと思われる。こういう状況で表面的な民主政治を維持しても、根本的な政治の浄化や改革は不可能だと考えられる。なぜなら自民党だけでなく、自民党以外の政治も同様に全てがもう手の施しようがないほどに腐ってしまっているからである。選挙によって政治の質や中身を入れ替えられるとする考えは単なる幻想に過ぎない。なぜなら日本の政治とは誰がとか、どの政党がという問題ではなくて全てを横断する思想として、冒頭に上げた三無を市民の目に見えないように埋没させて、政治権力を権威化させるために、徹底した愚民化政策を採っているからである。市民の批判能力を奪うために法律や報道が最大限に利用されているものである。娯楽も同じである。これまでに私が何度も言及しているパチンコなどのギャンブルも、言ってみれば愚民化政策の一環なのである。常識的に考えていただきたいが、パチンコ台の前でただひたすら球を発射するレバーを握って、プログラムされたデジタルの絵柄を何時間も見続けるところに何の技能も修練もないのであって、そういうことで何万円勝ったとか負けたなどと一喜一憂している人間が、国内に何百万人もいるようではどのような悪政が強行されようとも政治の現状が変わりようがないではないか。そうは思わないですか。だから依存症問題がどうのこうのと言ってはいるが、ああいうことは全ては建前論の偽善なのであって、本当は政治や権力の腐敗を隠したり、現状の秩序体制を維持するためには、ギャンブルで国民を痴呆化させることは非常に有効なのである。その上に、一部の人間にとっては利権にもなるのでこれほどにおいしい話しはないということになる。そういう論理の延長線上で、カジノまでもが合法化されたものであって日本はギャンブル大国なのである。私はカジノを経験したことがないのではっきりしたことは言えないが、ラスベガスやマカオシンガポールのカジノは、日本が推し進めようとしているものとは性質が根本的に異なるような気がする。海外のカジノを肯定したり、賞賛するものではないが、少なくとも愚民化政策の一環として政治的に組み込まれたものではないであろう。どちらかと言えば、特別行政区域における治外法権的な意味合いがあると思われるが、それゆえに世界中の大富豪を寄せ付ける魅力を持ち得るのであろうと考えられるが、日本のギャンブルは国民を痴呆化させて、税金のように多くの人間から金を掻き集めようとしている魂胆が透け見えるので元から貧乏臭いし、いやらしいものである。パチンコ店のある風景など日本の貧乏臭さの象徴みたいなものではないか。日本の美しい景観を破壊しているだけで、そこには精神的な豊かさや夢の欠片もない。そういうことを日本は何十年も放置してきている。無意味、無駄、無価値の政治に覆われた日本はローマ帝国同様に滅亡してもおかしくはない。ローマ帝国だけでなく、太古の昔に存在したと言われるアトランティスなども同様に、全ての文明は戦争や災害によってではなく、精神的な堕落、退廃によって崩壊に突き進んでいくものである。それが歴史が教える絶対的な真理なのであろう。ともかくも日本の滅亡を回避するためには、市民が意識的に覚醒して、一人一人がこの目の前の愚民化政治を決然として否定、批判していかなければならないのだ。そしてそれが日本人が今を生きることの本当の意味だと私は思う。