龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

悪魔に向き合う

唐突ではあるが、皆さんは数字の666と聞いてどのようなイメージを持たれるであろうか。つまらないことを聞くなと不快に思われるかも知れないが、つまらなくともふざけている訳ではない。ご存知の通り666は聖書のヨハネ黙示録に記されている獣の数字であり、そこから転じて悪魔の数とも言われている。映画の『オーメン』を思い浮かべる人も多いであろう。私も中学生ぐらいの時に劇場で見た記憶があるが、6月6日の午前6時に生まれた悪魔の子であるダミアンには頭に666の数字のアザがあって、ダミアンを養子として引き取ってから家の中では不幸な出来事がどんどんと起り始めるという内容であった。よく似た名前に、ヘルマン・ヘッセの小説の『デミアン』がある。この小説は悪魔主義的なものではないが異端主義的な視点から善悪の本質を論じたもので、デミアンの名はデーモンに由来しているとも言われている。私は確か大学の時に読んで、詳しい内容は覚えていないが印象深い作品であったことを記憶している。
映画や文学の話しはともかくとして、何でこのようなことを言うのかと言えば、実は私の日常生活の中においてこの666の数字がどういう訳か、目にすることが多いのである。偶然と言ってしまえばそれまでなのだが、頻度的に偶然の域を超えているような気がしないでもない。一々記録している訳ではないので時間が経てばすぐに忘れてしまうものだが、具体的な例で言えば、一昨日に近くのイオンで買い物をしてレシートに記載されているイオンカードのポイント残高を何気なく見てみると666ポイントであった。今日(10日)に会社の支払いで、小切手を切ろうとして請求書を見ると請求金額が68,666円である。その他にも、特にいつという話しではないがコンビニでちょっとした買い物をして、千円札を出してお釣りが666円ということも2度ほどあった。しかしそれに関して言えばお釣りが666円ということは334円の買い物ということだが、野菜ジュースやおにぎり類などを2点購入するとそれぐらいの合計金額になり易い価格設定になっているようなので特別なことではないのかもしれない。それから私はFXをしているが、ドルなどの購入平均単価の1円未満の数字3桁が666に揃うこともあるし、パソコンの画面で現時点の相場を見ていると、何かが私を挑発しているように何十何銭何毛の三桁数字が666で静止する場面も多いような気がする。他にもいろいろとあるが、別に私自身がそれほど気にしたりとか或いはそういう現象を面白がっているものでもないので、すぐに忘れてしまう性質のものではある。しかし正直に言って、時には思うこともあるのだ。もしかすると私の人生や生活は悪魔に魅入られているのではなかろうかと。それでは悪魔とは一体何だということになって、そのようなことを真剣に追及し始めると大変なことになってしまうのでさすがの私もその辺では本能的にブレーキが作動して、無視したりスルーするような感覚が身に付いてしまっているものではある。だから666に遭遇しても私の反応は、ああ、またかみたいな感じで、淡々としていて冷静に一つの事象と観察しているようなところがある。
666の数字出現と悪魔の因果関係はともかくも、もっと言えば私はこれまで誰にも言ったことはないが、私の出生自体がどこか陰謀史観的な数字の符合があるように思えることも実はあるのだ。しかし以下に述べることをあまり真面目に受け止められて批判、批評の対象にされると狂っているとか、精神科に行けみたいなことにならざるを得ないものなので軽く受け流して読んでいただきたい。そういう私自身が半信半疑というか、本気でそう思い込んでいるものでもないのだから。でも繰り返すが、ふざけている訳でもない。
さてそれでは具体的に述べるが、私の生年月日は1963年7月17日である。1963の数字はどうでもよいのだが、7月17日に関して実は昔から気になっていることがある。こんなことを言ってよいものかと内心少し不安になってくるが、阪神淡路大震災が発生した日付が1月17日だ。どういう符合なのかと言えば、符合と言えるかどうかはともかく7月17日と1月17日は、地球の公転軌道において太陽を中心にして180度、一直線上の位置関係になっている。このちょうど正反対の一直線になっている天文的な位置というものが、どうも私には以前から何かの意味があるというか、運命づけられているような気がするのである。因みに都市伝説的に阪神淡路大震災発生の1月17日は、1+17=18で、悪魔の数字である6+6+6=18と符合すると言われているが、私にはそれは単なるこじつけのような気がする。数秘術とか占星術のことは私は何も知らないし、また興味もないのだが、自分の直感に基づいて言えば、足してどうのこうのより公転軌道上の180度の位置関係というものが何かあるのだ。そしてその何かに悪魔的な影なり気配が見え隠れしている。ついでに言えばこれは真正に偶然だと思うが、私の妹の誕生日が東日本大震災が発生した日付の3月11日なのである。それでこの3.11の裏側に何が位置しているかといえば、9.11なのである。果たしてこれは偶然なのであろうか。まあ偶然と言えば、偶然なのであるが、何かあるような気もするということだ。ついでに言えば、これも何の根拠もないことではあるが、私の直感での感想なのだが11とか17などの数は素数でしょ。素数には何かがあるのである。孤独性とか超越みたいな観念と結びついていて、そこに悪魔との親和性もそこはかとなく感じられるものである。
まあこういう話しはあまり深刻に受け取ってもらっては困るものだが、確かに世の中は、はっきりした根拠や実体はなくとも、いかにもそれらしく思える、見えるといった類のものに満ち溢れているということである。そして私の基本的な姿勢とすればそういうものを無条件に受け入れることはないが、全面的に否定はしないということである。全面的な否定どころか、我々が今生きているこの世界が悪魔的な操作に支配されていることは歴然とした事実である。それは北朝鮮のような独裁国家だけでなくて、一見、平和のように見える日本も実は同様なのだ。もちろん背後に実在する悪魔の神秘的な存在や力を察知するかどうかは、その人の精神性や好みのようなものであろうが、日本のような国の方が表面的には見え難いだけに、悪魔性が深く構造化されていて濃厚であるということも言えるのではなかろうか。だからこそ座間市アパートのような事件も時として発生するような気がする。そういう意味で言えば、私のように社会や日常生活の中に悪魔や悪魔性を見い出そうとする志向性は、悪魔に魅入られているというよりも、自分の身を守る最大の防御策になっているのである。なぜなら悪魔というものは本質的にその正体を看破されると力を喪失してしまう性質の存在性を有しているからだ。『エクソシスト』などの映画を見てもわかる通りに悪魔祓いの神父は聖水を振りまきながら、名を名乗れと何度も呼びかけているでしょう。あれは悪魔の名が判明するだけでも悪魔の力が半減することを神父がわかっているからなのである。こんなことを言っても大多数の大衆は意識がついてこれないであろうが、私がブログ記事で政治やマスコミの欺瞞を暴き立てるときには、私は確かに悪魔的なものに対峙しているのである。なぜなら悪魔の悪魔性とはそのような全体的な欺瞞の統制の中にこそ常住しているものであるからだ。そして私が悪魔に対峙する時に、私の身の回りには悪魔の象徴のような666の数字が偶然の域を明らかに超えて頻出してくるのである。666が出現した時には悪魔は、太陽の光を浴びて致命傷を負ったバンパイアのように力を喪失しているようにも感じられる。デトックス好転反応のようなものである。社会を改善していくためには政治や報道の悪魔性に真正面から向き合わなければならないのだ。しかしその事実や理解と、本当に悪魔が何らかの次元に実在するかどうかということと、日常生活の中で666の数字に遭遇することと、政治や報道の問題とは別の領域の問題である。本質的には通底していても、この世に事象や象徴として出現した時には分離してしまっているのだ。ぱっと直感で全体の本質をつかみ取ることは主に詩的な感性の働きによるものだが、あるべき階層性の中に分離して分析、批評するということは知性の問題である。この感性と知性の両輪が健全に作動しないことには、社会を進歩させていく力にはならないのだと思われる。そして一つの精神の内部でそういうことが整理されずに混在している状態が被操作性が高まっていて、政治や宗教の教祖や霊能力者などに騙されやすいということになるのであろうと考えられる。人生は不可解である。しかしその不可解さに溺れてはならない。なぜなら人生は不可解でありつつも秋空のように透明でもあるからだ。