龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 17


以降のテーマは“情報”についてである。身の回りにあふれる娯楽としての情報ではなく、我々一人一人

の“生”の質に結びつく情報について書こうと思う。それで作家、村上龍が昔何かのエッセイで、日本人

は侵略された体験がないから駄目なのだと言っていたことを思い出した。当時はピンとこなかったが今は

身に沁みるようにその言葉の意味がわかる気がする。それは情報に対する本能的な感度の問題なのだ。ヨ

ーロッパのように陸続きの地で複数の他国と接する国にあっては、侵略を回避し、いかにその危険性に立

ち向かうかということが国家や民族存亡の運命を分かつのである。よって情報がまさに命がけなのだ。他

国から派遣されてきた使者の言葉を信用するか、しないかの判断を誤ると国が滅んでしまう可能性があ

る。民衆もまた支配者の言葉の真意を全身全霊で見極めようとする。家族の命がかかっているのだから当

然だ。それに比べて日本という国は太古より一貫して、統治者の言葉を信用し疑わない態度が身の安全に

結びつく風土であった。そのような悠久の歴史のなかで日本人の精神性は形成されてきているので、現代

においても大衆はお上(メディア)の情報(考え)を無条件に受け入れ、結果全面的に誘導されてしまう

ことになるのである。官僚はこのような大衆の性向を最大限に利用して秩序の安定と権力の維持に利用し

ている。また、これは日本に一時期、統治されていた歴史をもつ韓国と日本の外交関係についても通ずる

ところがあると私は考える。戦争責任に対する謝罪の言葉が、これまで歴代の首相によって何度も繰り返

されているが日本が韓国に信用されているようには見えない。問題の本質は、情報というものに対する切

実さ、危機感に対する両国間の意識の違いにあるように思われる。要するに日本の首相は誠意という気持

ちの次元で謝罪し、韓国の世論はその言葉を“情報”として冷徹に分析、判断しているのだ。この違い、

落差はあまりにも大きい。はっきり言って日本の政治家は馬鹿なのである。なぜならメディアが大衆を誘

導する程度の密度の言葉で、国家間の正常な外交関係を樹立できると勘違いしているからだ。相手国はい

つも命がけなのである。だから日本にはODAしかないということになるのである。元に戻るが、日本の

大衆がメディアや官僚の考えに従って大人しく生活していれば日々の安寧と中流としての生活レベルを享

受できていた時代も確かにあった。しかし、今はそうではないし今後そのような時代に復帰することはあ

り得ない。むしろ酷くなってゆく一方なのは現状を見れば明らかだ。にも関わらず、依然として大衆の鈍

感さが変わらないことに歯がゆい思いをするのは私だけなのであろうか。それでは、具体的にどうすれば

よいのかということであるが、簡単に言えば自分のことだけ考えていては駄目だということである。自分

のことだけ考えていると自分の取り分はどんどん先細ってゆく。私は、自信を持って言うがこれは絶対的

な真理である。たとえば先に、私は自分の立場を守ったり、不都合を隠すために警察や法律を利用(悪

用)する女性が急激に増えている例をあげた。苦言を呈するが、一般的に女性は“女のための”というフ

レーズに弱すぎる。女のための法律です、とか女のための芸術(学問)ですとか言われると無条件に受け

入れ、とことん利用し尽くさないと損だ考える傾向が強すぎる。国家が健全で財政的にも潤沢な時は、そ

の考えも妥当であるかも知れないが、日本の今のようなような逼迫した状況であれば発想を逆転させない

と結局自分の取り分は少なくなるし、幸せにもなれないのである。そのような大きな視点で物事を考えら

れる女性がもっと増えないと日本は絶対に良くはならない。と言うと男女問題の二項対立的なイデオロギ

ーに基づいて批判する人が日本にはたくさん存在する。しかし男女問題でも戦争と平和的な右翼と左翼の

対立でも言えることであるが、二項対立的なイデオロギーはすべて背後で管理している支配者にとって、

とても都合の良い環境なのだ。二項対立は支配者にとって非常に安心な大衆意識であるといえる。なぜな

ら展開が読みやすいし現状の社会秩序から大きく逸脱する恐れがないからだ。しかし、その状態の下で隠

蔽されているものが非常に問題なのである。支配者は大衆が永久に猿蟹合戦を続けることを望んでいる。

お分かりであろうか。分かる人間は1秒で分かるであろうし、分からない人間には100年説明し続けて

も分からないであろう。いつの時代も人の世はそういうものなのかも知れない。

次のテーマは“道徳”についてである。先ず道徳とは何かということを説明する。法律は国家権力によっ

て罰金や懲役などの外面的強制力から人を従わせるものであるのに対して、道徳は個人の内面的な原理で

あって尚且つ社会の構成員全体に共有されている規範である。ここで国家と個人の対立軸が生じるのであ

るが、法律と道徳の定義からわかる絶対的な真理は、道徳の方が法律よりも安上がりであるということで

ある。これは非常に重要なポイントである。法律はただではないのだ。特に新しい法律を一つ作るという

ことは非常に社会的コストが高くつくものと思われる。なぜなら法律とは文言だけのものではなく、その

法律を支える行政システムや社会に周知させるための広報が必要となるからである。しかし一方でその法

律によって利権を享受する一部の人々が存在する。そういうことを牛耳っているのは、日本にあっては政

治家ではなく霞ヶ関に集まっている官僚たちなのだ。今日のように道徳が荒廃した世相は、実は官僚たち

にとって非常に都合のよい世の中だということができるのである。なぜなら新しい法律や条例をどんどん

作って自らの権力基盤をより一層強固なものにし、各種業界団体やメディアに対する支配力を維持するこ

とが容易であるからである。こういうことも一般大衆が知らしめられていない重要な事実であると私は考

える。以上のような理由において我々は、自らの生活を守るためにも何よりも“道徳”を選択しなければ

ならない必要性に迫られていると言えるのだ。ではどのようにして道徳を回復するのかということであ

る。いきなり大衆に対して御託宣のごとく「君たち、道徳に目覚めなさい。」などと言ったところで「は

ぁ、道徳て何やねん。そんな法律いつ出来てん。」という答えが返ってくるに違いない。私だって権力サ

イドの人間から道徳的に説得される場面があればそのように言うかも知れない。いや、きっと言うだろ

う。おためごかしにしか聞えないからだ。それでは、おためごかしではない道徳とは一体何なのかという

ことであるが、私はそれを日本という国全体が有機的に繋がった生命体だと認識する思考様式であると考

える。たとえば国家を人体に模して考えるとわかりやすい。一人一人の国民は一個の細胞である。心臓や

胃や腎臓などの内臓器官はそれぞれ生命を維持する特有の働きをしている。人体というものを単なる部分

の集積と考えれば、各臓器の専門医が特定の臓器だけを強健にしようとする。しかし言うまでもなく心臓

だけが丈夫であっても他の臓器が駄目になれば人は確実に死にゆく。臓器間の連携が機能不全に陥っても

同様である。国家においては、内閣府や各省庁、警察、司法、メディア、教育機関、業界団体などが人体

の臓器に相当するような重要な役割を担っている。それらの各部門が個別の利権に囚われた動きをしてい

れば全体は確実に弱ってゆく。各部門は日本という全体の利益を高めるために、それぞれの部分的機能を

果たすと同時に他部門と有機的に繋がらないといけない。その際に重要な点は有機的結合と“癒着”は異

なるということである。癒着もまた結合のひとつではあるが全体価値を高める方向には働かない。これは

法に抵触する癒着も、抵触しない癒着も同じである。要するに法律の問題ではなく全体価値を高めようと

いう意志があるか否かという“道徳”の問題なのだ。そして道徳とはステロイドのように特定の部位に注

入して急激な効果を期待するものではなく、漢方薬のように全体的に時間をかけて緩やかに回復させる方

法である。今、日本は政治と金の問題をめぐり政治資金規正法によって政治家の不正が次々に炙り出され

処罰される事態が引き続いている。それで日本の民主主義が保たれ、政治の健全化が一歩ずつ進んでいる

と勘違いしている人も多いかと思うがそうではないと言いたい。特定の政治家に対する攻撃は、政党間の

抗争であると同時に大きな意味で日本の真の民主主義化、健全化の要諦を隠蔽する役割が秘密裡に含まれ

ているのだ。日本の支配者層は全体の利益を高める方向ではなく低める方向で非公式に結びついており、

その事実を大衆の目から逸らすためには絶えずスケープゴートを必要とするのである。一般に道徳が問題

にされるときに、それは大衆道徳を意味している。しかし先にも言ったように、日本人は本質的にお上の

意向に無条件に従う遺伝子のようなものに支配されている民族であって、大衆道徳の劣化を言うのであれ

ばそれは元を正せば支配者層の欺瞞や偽善に原因があるのだと私は言いたい。ただし日本には超越的な知

性の拠点や全体を監視するシステムが存在しないので各管理者的な機関が非公式に横断的に結びつくのは

ある程度、やむを得ないのではないかと考えたりもする。本当は日本の宗教界から、たとえばカトリック

教会のローマ法王庁のように政治的な意見が時には出てきてもよさそうなものだと思う。「このままやっ

たら、あきまへんで。小さな子供や貧しい者が可哀想やないですか。どないかならんものですか。」と。

しかし、そのような発言はまったく聞えてこない。思うに日本の宗教界は過去に国家に弾圧された恐怖が

未だに深く刷り込まれていて権力に対して物言うことが出来なくなっているのではないか。当局に目をつ

けられると、法律が変わって税金をごっそり取られるのではないかと心配しているのではないか。だから

歴史や伝統の上に胡坐をかいて、触らぬ神に祟りなしとばかりに沈黙しているのではないか。然らば、こ

れを堕落と言わずに何と言う。宗教界もまた官僚化しているのである。話を戻す。それで具体的にどうす

ればよいのであろうか。先ず第一に我々は、道徳が循環であり相乗効果にあることを認める必要がある。

そのパラダイムのもとで具体的に知恵を絞ってゆくべきではないかと考える。それを阻むような既存の権

威とは戦う覚悟も必要であると思う。要するに既存の権威が、情報や道徳を支配し続けてきたのが日本の

今日的な問題になっているのである。我々、市民はそれを自らの手に取り戻さなければならない時期に来

ている。

賢くならなければ幸せにはなれない。



『流れる言葉』

私の言葉は流れてゆく。行き先はわからない。

ただ夢想する。流れる言葉の毒が岩盤を侵食してゆく光景を。

そして抜け殻になった言葉たちは、どこかの河口付近にひっそりと堆積するのだ。新しい時代の海を臨

む、その場所で。