龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 51


先日TVを見ていると秋葉原殺傷事件について、その事件発生は社会に原因があって犯人は普通であると

思うか、思わないかという二者択一でのアンケート調査をもとに識者による討論が行われていた。

アンケートの結果は6割以上が社会に原因があるというものであった。私はここで個人と社会との関係と

いうものを問いかけたい。秋葉原事件の犯人の凶行に対して心ひそかにシンパシーを感じている若者たち

もいるようである。TVを見ていて書かずにはおれない気分になった。

秋葉原事件の犯人は日本社会と自らの人生に絶望していたのであろう。その心情について同調する人々が

少なくないであろうことは理解できる。しかし自棄を起こして他者の命を奪ったところで何ら生産的なと

ころはない。過酷な環境下の刑務所で死を意識しながら過ごす日々は想像以上に厳しいものであるはずで

ある。

いつの時代も犯罪は社会とともにある。だから社会状況が犯罪を生むとも見れる。ならば個人が自覚的に

社会の在り様に対して責任を持ち、そのような個々人の集積が原因となって創出されるより良い社会とい

うものをもっと身近に感じることはできないものだろうか。

これは日本の民主主義を考える上で非常に重要な要諦である。要諦であるどころか、今後日本が民主国家

として存続してゆくことが出来るかどうかが試される、戦後最大の脱皮であり変身であると思われる。

絶望は無力感から生まれる。ならば個人は社会に対して本当に無力なのか。民主主義は数の論理で動く機

構である。だから一個人が社会に対して対抗し得ないと考え勝ちである。厳しい生存競争を勝ち抜いて金

持ちになったり、社会的に影響力のある有名人になったり、結社しなければ個人は負け組みの人生を余儀

なくされる。そのような考えは私に言わせれば、既存の欺瞞的な社会システムを保持するための誘導であ

りトリックである。

本当はまったくの反対なのではないかと私は思う。金持ちや有名人たちは既存のシステムに適合しすぎて

いるがゆえに、様々なしがらみや圧力の中で社会の矛盾を暴きだしたり、本当のことを言うことができな

いでいる。失うものが大きすぎて黙っている連中は進化論的に言えば、移りゆく環境のなかで前適合し過

ぎているがゆえに滅んでゆく運命なのである。

数の論理は、現代においては社会システムの矛盾や欠陥を隠蔽するために悪用されている負の側面の方が

大きいと思われる。この点においてメディアの権威や行政、司法などが一蓮托生的に結びついている現状

が日本の民主主義の質的転換を妨げている。しかし真実は隠されるがゆえに力を吸収し、暗闇で発光する

かのような側面を本質的に持っている。

有名人でなくとも金持ちでなくとも、ただ一人で社会に立ち向かうことは可能なのである。むしろ組織の

援助などなしに、ただ一人孤独の中で社会の在り様に対して責任を持ち言葉を紡ぎ出してゆくことのみが

社会を変革しうる唯一の方法であるとすら私には思える。老子の思想であるが、弱きものが強いのであ

る。小さきものが大きくて、少なきものが何よりも豊かなのである。要するに絶望することはないという

ことである。

ただ一人で静かに真理を語る人間を社会は無視できないのである。そのような弱きもの、小さきものに社

会システムは脅威を感じる。人体に侵入したウイルスに対する生体反応のように攻撃して排除しようとし

たり、取り込んで同化させようとする。柄谷行人は資本主義は才能(異物)を噛み砕いてゆく牙であると

言った。私は資本主義そのものを噛み砕く牙でありたいと思う。

噛み砕かれるか、噛み砕くか、食うか食われるかの戦いである。