生きること、書くこと 52
日本に痴漢が多いであろうことは認める。国際的に見てとても恥ずかしいことである。事実なのだからそ
れはそれである。しかし痴漢は本来、迷惑行為であって犯罪ではないはずだ。
迷惑行為は日常生活の中に無数にある。車の中から中央分離帯に空き缶やゴミを投げ捨てる人間がいる。
猥褻な広告メールを無数のアドレスから送り続けてこられると重要な仕事の受信内容を見落としてしまい
がちである。家の前に吐かれた誰のものなのか分からない痰を水で洗い流すときほど情けない気持ちにな
ることはない。痴漢は女性が対象となることから性質が異なるとも言えるが、迷惑行為の中の一つである
ことには変わらない。
問題は迷惑行為に過ぎないものを犯罪として強権的に取り締まると必ず冤罪が発生するということであ
る。示談金目的で痴漢の言いがかりを付けられることもあるらしいから満員電車に乗るのは怖いという話
しは3年ほど前から私の身辺でも聞いていた。私の耳に入るぐらいなのだから実際に相当数があるのだろ
うと思っていた。
しかしそのような兆候が表沙汰になるような気配はまったく感じられなかった。『痴漢は犯罪です』のポ
スターやアナウンスの連呼は、冤罪の可能性について言及するだけで逮捕されるのではないかとすら思え
るほどの強圧的な雰囲気に満ちていた。
日本の権威的なメディアは風紀や秩序を維持せんがための“正義”のために、百ある事例のなかに存在す
る僅か一つの“不正義”(冤罪)を抹殺しようとする傾向が甚だ強い。しかしジャーナリズムの本分は百
の中の一、千の中の一を淡々と報ずることにあるはずなのである。それをどう判断し、どのような社会に
向かってゆけば良いかを決めるのは我々一市民のはずなのである。
それが日本が脱皮してゆかなければならない民主主義の根本的な質的転換なのではないかと私は思う。
そもそも痴漢についていえば、料金を支払って乗車している客に対して牛や馬を運搬するかのごとくぎゅ
うぎゅう詰めに押し込むような非人間的な扱いをしておきながら、痴漢行為という客同士のトラブルに際
して鉄道員が戦前の治安警察のように問答無用の態度で対処することに疑問を感じるのは私だけであるの
だろうか。
幸い私は電車の中で女性が痴漢の被害に合っている現場を目撃したことはないが、もし今後そのような場
面に遭遇すればその加害者を注意はしても駅員や警察に引き渡すようなことはしたくないと考える。迷惑
行為は権力によってではなく市民社会の道徳の範囲内で解決する問題であると思うからである。