生きること、書くこと 100
日本テレビ社長が、報道番組「真相報道バンキシャ!」における誤報問題の責任をとって辞任した。岐阜
県県庁で裏金作りが行われていると同番組内で証言していた男の話が虚偽であったことが発覚し、男は偽
計業務妨害容疑で逮捕された。日本テレビ社長は“誤報”の原因について我々に明らかにしようとせず、
自らの辞任をもって問題を終結させようとしている。
そもそも報道機関が“誤報”の責任を負うべきなのか。社会に重大な影響力を有する新聞やTVなどのメ
ディアは本来、事実を曲げたり誇張したりせずに国民にありのままを報せる責務を担っているはずであ
る。報道に携わる者は、真実という絶対的な神に仕える敬虔な信者でなければならないとも言えよう。よ
って“誤報”は神(真実)に背く罪深い過ちだと言えなくもないから、罪悪感を持つのはご当人の勝手で
ある。
しかし真実そのものは神のように不可視である。神の存在がひたすら信じ続けることによって内面的に感
得されるものであるのと同様に、“真実”は証拠や状況などから間接的に類推しその本質へと迫ってゆく
べきものである。それがジャーナリズムの本道であるべきはずだ。よって敢えて言えば、真実を究めると
いう誠実さの前において誤報は罪ではない。単に訂正すればよいだけのことである。
民主主義国家の本筋から考えても、市民生活や社会の質に深く関わる役人や政治家の不正について報道機
関は、疑うに足るしかるべき理由があれば誤報を恐れず、怯まず積極的に報道するのが本分である。“真
摯”に真実を追究することがメディアの仕事であると定義すれば、ある程度の誤報は想定内のこととして
社会的に許される範疇に含まれていなければならない。
ところがメディアが何かしら大きな勘違いをしていて、自分たちには神のように真実を作ったり操作でき
るのだと心のどこかで考えているのだとすれば、その傲慢な思い上がりは万死に値する。もし日本テレビ
(あるいは下請けの制作会社)が男の虚偽に騙されていたのではなく、承知していたのだとすれば犯罪の
共謀である。社長の辞任と一番組を終了させるだけで済む程度の問題ではない。
ましてや事実の核心を隠蔽しようと画策しているのであれば報道に携わる資格はない。ただちに局として
一切の放送業務資格を返上するか、剥奪されるような事態であると言える。