龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 108


大阪の歩道は狭い上に、立て看板やのぼり、プランターなどが無造作に置かれていたり自転車がいたると

ころに駐輪されているので歩きにくいことこの上ない。ごちゃごちゃしているのは大阪の伝統文化みたい

なものだから我慢できなくもないが、文句の一つも言いたくなる時がある。景観についてではなくマナー

の悪さである。自転車で歩道を通行する場合、障害物のところでストップして相手を先に行かせてやらな

いと擦れ違えない場所が多い。ところが若い女性に見かけられるが、止まる気配をまったく見せずにばー

っと突っ込んでくるのである。まるで六甲山中から街に下りてきた猪のようである。止まることを知らな

いのだ。“もうどうにも止まれない”のだろうか。それでぶつからないようにこちらが止まって道を譲っ

ているのに、何も言わずに会釈すらしないでしらっとした顔で風のごとく通り過ぎてゆくのである。レデ

ィファーストはいいが何の反応も無いのはちょっと心寒い。私の見るところ男の子たちの方が相対的にマ

ナーがよいのである。どうしたことだろうか。

先日もこのようなことがあった。ある映画を見終わった帰りのことである。小さな子供を連れた母親がエ

レベーターの方に向かって近くまで来ているのに、エレベーター内で一ヶ所しかない開閉ボタン前にいた

10代後半と思しき女性は“開く”ボタンを押そうともしないでぼさっと突っ立っている。それでその母

親はエレベータードアにバンという音とともに結構派手に挟まれてしまった。私は開閉ボタンの対角線後

ろに立っていたが、あっという間のことであった。エレベーター内で母親は、(挟まれたのが)何々ちゃ

んでなくて良かったねと子供に話しかけ腕をさすりながら開閉ボタン前の女性を軽くにらんでいた。しか

しにらまれている方は特に悪びれた様子もなく、何で私がエレベーターガールみたいな仕事せんとあかん

の、と言わんばかりの顔をしていた(ように見えた)。反射神経が鈍くて開くボタンを押せなかった訳で

もなさそうだった。

常識がないと言えばそれまでだが、こういうことはきちんと教えてやらないと“わからない”のである。

もちろん一義的には親の躾の問題であると言える。恐らくこういうマナーが悪い子供をもつ親は、親自体

が猪並みの知性や感性しか持ち合わせていないのであろう。しかし親の躾が全てかというと私にはそうと

も思えない。親の程度が低くとも、その親を反面教師とするような道徳涵養の機能が社会には必要なはず

である。ところが日本には、たとえば“愛は地球を救う”といったような漠然としたキャッチフレーズは

山ほどあるが、一人の人間が生きていく上で他者との関係において自らを律したり、一歩退いて我慢する

ようなモデルは皆無である。よって日本人そのものにそのような知恵や感覚が欠落しているのである。現

代では市民の本来的な道徳感覚に制度が取って代わっている。昔に比べて世の中が複雑になっているから

仕方ないのだと識者はいう。果たしてそうだろうか。

たとえば自転車が歩道を通行する際に発生する事故について考えて見よう。人込みの中を猛スピードで自

転車を走らせば危険なのは当たり前である。道幅や歩行者の数に見合った速度で安全に走っていれば、自

転車で死亡事故など起きるわけがないのである。これは本来、マナーというより常識の問題である。これ

が制度として自転車の歩道通行禁止になるとどうなるであろうか。最近、車を運転していて驚いたことで

あるが、自転車が歩道寄りの車道ではなく中央分離帯横を平然と走っているのである。若い女性が2車線

国道の中央付近を自転車で悠然と車と一緒に走っている光景も見た。まあ大阪ならではなのかも知れない

が、20年前の中国のような風景である。

制度は事を極端に走らせる危険性があるのである。逆に言えば法律に違反さえしなければ、何をしてもよ

いのだというような風潮になりやすい。

このような社会背景に大衆を“モノ化”させる官僚支配の思想を私は見る。データを弄くりながら、政治

家やメディアを通じて一元的に中央統制をかけてゆく。次第に大衆はモノ以上のモノでは有り得なくなっ

てゆくのである。かつての大量生産、大量消費の時代にはそのような大衆をモノ化させる統治形態が有効

であった。ところが今日社会状況は180度変転し、大量生産、大量消費へ逆戻りすることは考えられな

いにも関わらず、日本には自民党の政治しかないがゆえに官僚の一元的な統治は弱まるどころか寧ろ強化

されているのである。それは今日においては、基本的に高級官僚の危機意識から保守的になされているこ

とである。そういうからくりを大半の人間が見抜く目を持てないこと自体が、モノ化された結果であると

いえる。一旦モノに堕してしまった人間がモノから脱することは極めて難しい。しかしこれは民主主義の

質の問題であるのだから軽く考えることは許されないはずだ。

“人間”は人の間と書く。人の間をつなぐものは、法律や条令ではなく“道徳”であるべきだ。なぜなら

法律には心がないからだ。あるのは大衆を管理する一部の人間たちの背後に隠された利権だけである。悪

ごっこをして喜んでいる連中のことだ。

日本人が心を取り戻すことはもう無理なのか。

言ってもわからないだろうな。

壊れたパソコンに文句を言うのは、とても、とても空しい。