龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

安倍首相の限界

当初(昨年の衆議院選挙前)から薄々、感じていたことではあるが、安倍首相の憲法9条改正に進む本気度には、疑わしいところがあった。選挙前には断固として国を守るとか、かなり勇ましいことも主張はしていたが、どうも選挙目当てと本音が半分半分のようにも、少なくとも私の耳には聞こえていた。よって自民党が大勝して、いざ憲法改正だ、極右政治の再来だなどと一部のマスコミや中国、韓国などが大げさに警戒していることが、私には違和感があった。私は憲法改正論者であるが、そこまで心配しなくとも、その内に安倍首相の机上の改憲思想は、現実の政治の中で挫折、頓挫する可能性の方がかなり高いであろうと悲観的に考えていたからである。安倍首相に一縷の期待はあったが、様々な圧力や干渉の中で、自己の信念を初志貫徹できる人物であるとは、残念ながら思えなかったということだ。2世議員の限界と言うものもあるのであろう。それがここにきて、自民党の政権復帰後9か月ぐらいであるが(民主党政権の時もそうであったが、大体これぐらいの時期に選挙公約が、むにゃむにゃと曖昧になってくる)、案の定、憲法改正路線は、かなり後退してきた。今や憲法9条の改正は、現行憲法の範囲内における集団的自衛権の解釈の問題にすり替えられてしまっている。左翼の護憲派メディアなども、ひとまず安心したのか、一時に比べれば憲法改正問題について触れる機会も減少してきているようである。しかし本来であれば、左翼の護憲派であれ保守の改憲派であれ、現行憲法の解釈を、なし崩し的に変更しようとする試みが、最も危険であるとして全体的な意見の一致が見られるべきはずなのである。ところが安倍首相のこの安易な変節を批判する声が、聞こえてこないということは非常に嘆かわしいことである。安倍首相には、今一度原点に立ち返って、日本と言う国をどの方向性に導いてゆくべきなのかをよく考えていただきたい。戦後レジュームからの脱却とは、一体、何だったのか。アメリカ政府やジャパン・ハンドラーの要求、要請に従い続けることが、つまりアメリカの傀儡国家であり続けることが、自民党の不変の基本指針であるというのであれば、国民に嘘をついたり、詭弁でごまかしたりすることなく、そうであらねばならない理由をきちんと説明した上で、民主国家として国民の審判や判断を仰ぐべきではないのか。選挙目当ての建前の公約と現実の政治は異なると言う人も多いであろうが、現実的に日本にはアメリカの傀儡であることを望み続ける国民も多いであろうから、誠実にそれらの人々の支持を高め、増やしてゆく政治をすればよいではないか。安倍首相のように戦後レジュームからの脱却や、自主憲法制定の必要性を訴えながら、現実の政治はアメリカの傀儡であり続けようとする姿勢が、最も問題が大きくて、罪深いと言えるのである。それでは蛇が空腹のあまり自分の尾っぽをくわえて食べているのと同じで、一見は丸く収まっているようにも見えるが、そのうちにだんだんと環は小さくなり、やがては消滅することになるであろう。矛盾の構図の中で日本を消滅に追いやる自民党政治の責任はあまりにも大きいと言える。とにかく嘘やごまかしはいけない。日本の国民はそれほど馬鹿ではない。大抵のことは見えているものだ。見えていないのは政治家だけである。