龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治の汚さと民主主義との関連について

猪瀬氏が都知事辞任に際して、自分は政治家として「アマチュア」だったと繰り返し言っていた自戒の言葉は、中々意味深である。そのアマチュアとはどういう意味合いなのであろうか。私はTVで辞任会見の放送を見ていないので、よくはわからないが、想像するに政治家として同じように不正行為を働いていても、暴かれて辞職に追い込まれる人間と、何事もなかったように見逃されて平然と構えていられる人間の二種類がいる、自分がターゲットに仕向けられてこのように辞任せざるを得ない状況を迎えたことは、結局のところは政治家としてアマチュアだったからだ、との思いを吐露したものではなかろうか。政治家なら誰でも、叩いて埃の一つも出てこないような清廉潔白な人間など存在しないということが世間一般の共通認識であろうし、私もまた同感である。同感であるという以上に清廉潔白どころか、政治は我々一般国民の想像を絶するほどに汚い世界ではないかと考えられるものである。それも政治家は自分の手は汚さずに、秘書などの金庫番に決して表には出せないような方法で金集めをさせておいて、高邁な綺麗事を述べ立てる。秘書もまたそういう裏の功績を積み重ねることで将来の政界進出への足場を築いたり、利権を私的に利用できる権限を手に入れてゆく。政治とは基本的には、昔も今も、間違いなくそういう世界であると想像されるものである。まあ、唯一、共産党は例外なのかも知れないが、共産党以外はどれもこれも金への汚さという点においては、似たり寄ったりなのではなかろうか。よってマスコミが相も変わらず周期的に、特定の政治家だけを「政治と金の問題」などと厳しく追求する姿勢を見せても、我々一般の国民的には、どこか白けたような茶番が演じられているようにも感じられるし、陰謀の筋書きがあるようにも見えてくる。私は個人的には、今回の猪瀬氏の件に関して見れば、茶番でも陰謀でもないと思うが、絶えずそう見えてしまうところの構造的な要因が日本の民主主義にあるのだとすれば、それは猪瀬氏が受け取った5000万円の金などよりもはるかに大きな問題であると言えるのではなかろうか。卑近な例で言えば、我々一般の国民生活の日常生活においても、たとえば同じように自動車のスピード違反をしても、駐車禁止をしても捕まる人間とそうでない人間に分かれる。そこにはどうしようもなく運、不運がつきまとう。しかし政治は広範に国民の生活、経済、安全に関わるものであり、恣意的な見せしめの権力行使で誰かが捕まって、誰かが黙認されるという構図は、それ自体が日本の民主主義の欠陥のようにも思えてならないものである。もちろん政治の重要性ゆえに一網打尽という訳にいかないのは当然であるが、小出しに大物を捕まえて見せるようなパフォーマンスが日本の民主主義を支える柱の一本になっているのであれば、その日本という家屋の設計というか構造は、やはりどこかが間違っているのだと私は思う。政治の不正が根絶されない土壌は維持されたままに、その時々で誰かがスケープゴートになされて、検察やマスコミの正義が実行されていさえすれば、日本の民主主義が健全に機能しているかのような幻想がそこにはある。しかしその幻想の下で、外交や防衛などの現実的な不安や機能不全は、少なくともこれまでは、なおざりに包み隠されたままであった。結局そこにあるものは、政治の独走を防ぐ日本の民主主義のある種の調整弁のような働きなのだと思う。調整弁であるから、時には陰謀論的な意味合いが読み取られることも必然なのであろうが、必ずしも全てが陰謀である必要もなく、最終的にはその時代における日本の統治がどのような構図、構造を必要としているのかという視点から深く考察しないことには、真の日本の姿というものは、日本人にとっても非常に分かり難いものである。日本の分かり難さの正体とは、単に「誰が」とか「何が」という問題ではなく、新旧の構図と構図、構造と構造のせめぎ合いにこそあるのだと思われる。そしてそういう日本型権力の地殻変動による衝撃や急激な変化を弱める緩衝装置として、「政治と金」の摘発が有効であるがゆえに、いつまでも政治の不正は存続しなければならないという理屈も成り立つのである。また政治家にしても不正で得られる利益と、不正が発覚するリスクを比較考量した時に、時には運悪く捕まる事態が生じるにしても、あまりにも得られるメリットの期待値が莫大であるがゆえに多くの人間が政治の道を志し、本音のところでは誰も本気で清廉潔白な政治の在り方など望んではいないのではなかろうか。私の考えが間違っているかも知れないが、私は政治とはそういう世界だと思っている。とにかく、想像を超えるほどに汚い世界なのだと思う。よって我々国民とすれば、そのような腐敗の現実に幻滅するだけでなく、ある程度はそういうものだと達観した上で、少しづつでも理想の国民主権の政治を実現する道を模索する以外にないのではなかろうか。そうでなければマスコミが主導する見栄えだけの正義やモラルに惑わされ、コントロールされるだけである。猪瀬氏の言う政治のアマチュアとは、私から見れば、清濁併せ呑むほどの実力もないままに急激に政治の悪に染まってしまって、都民からの絶大な支持を背景に、態度だけは尊大でふてぶてしく、必要以上に多くの敵を作ってしまったことの結果だと言い換えることができるのではなかろうか。やっかみや妬みのような反発もあったのかも知れない。いずれにせよ我々国民にとっては、誰が辞任に追い込まれようが、誰が逮捕されようとも、民主主義の根本を見失ってはならないと思う。我々一般国民にとって大切なことは、政治の「点」ではなく「面」なのだ。どのような面が確保され、或いは駆逐されて、どのような面が新しく出現してくる可能性があるのか、ということに対して絶えず注意を向け続ける必要性がある。秘密法案があろうとなかろうと、所詮、一般人にとってみれば権力の深層で何が起こっているのかはわからない。よって立体的な把握はできないものである。しかし海面を具に観察していれば、海底で何が起こっているかは大体は、予測はつくものである。既得権益とは一つの揺るぎない面である。この面を一つの点が、葉に付く虫のように食い破っていくことは大変なことである。不可能であるとも言えるであろう。しかし我々国民もまた国民的な一つの面なのだ。結局、我々は虫食いのような効果を期待するのではなく、面と面を全面的に戦わせていく以外に道はないのであろうと思う。そしてそれは民主政治の形式によるものではなく、主に国民全体の政治に対する意識と認識力に掛かる問題であると言えよう。